「六甲の山津波」でも屋根に避難

 谷崎潤一郎の『細雪』には、周知のように昭和13(1938)年の「六甲の山津波」の被災が描かれている。中巻八に「妙子の遭難の顛末」が、当人と貞之助とが交々語ったこととして描写されているのである。洋裁学校の経営の玉置女史とその息子弘、そして妙子が青年板倉に救助された次第が述べられている。襲ってくる濁流の迫力ある描写には、あらためて感心させられる。板倉によって、3人は藤棚に助け上げられる。
……かう云ふ板倉の活躍も、相當の時間を費やしたやうでもあるし、割合に短時間であったやうでもあるし、實際どのくらゐの間そんなことをしてゐたのであるか、後になって考へてみてもよく分からない。當時板倉は、これもアメリカで買った、自動的に發條(ぜんまい)の懸る、水に漬けても大丈夫と云ふ自慢の腕時計をしてゐたけれども、それがいつの間にか用をなさなくなってゐた。兎に角三人が一往救ひ出されたところで、藤棚の上で暫く立ったり居たりしてゐた間も、雨は猛烈に降ってゐたし、水もまだ増して來つゝあった。で、藤棚も危いと云ふので、又丸太の橋を渡って、屋根の上へ逃げた。(丸太のところに更に材木が二三本流れ寄って筏のやうに重なったのが、大変役に立った)……(『谷崎潤一郎全集15「細雪」』中央公論社:( pp.321~322)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20140909/1410263300(「谷崎潤一郎細雪』をめぐって:2014年9/9」)
 http://www.bosaijoho.jp/reading/history/item_690.html(『阪神大水害(その2)・「細雪」に見る災害 』)

⦅写真は、東京台東区下町民家のコムラサキ(小紫)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆