三の酉


 今年は、三の酉まである年。武田麟太郎の「一の酉」(昭和10年)は、珠玉の作品。三の酉まである年の初酉の日の、居酒屋の女給仕おしげをめぐる物語。店の旦那豊大郎と関係ができてしまったおしげは、義姉おつねの器量に嫉妬する豊大郎の妹おきよに豊大郎を奪ってもいいと煽られている。バツイチのおしげの母が年下の男と同棲している下宿先の息子秀一が、その日店に呑みに来ていた。『日本ペンクラブ電子文藝館』より最後のところを引用。
 http://bungeikan.org/domestic/detail/453/(『「一の酉」日本ペンクラブ電子文藝館』)※ルビは外した。
……いや、と彼女はもぎ取るやうにした。袖で涙を拭いて、ぢつと立つてゐたが、役者のやうににこにこと表情を作つて見た、出来たと自信がつくと、それをマスクのやうにかけて出て、
「ごめんなさいね」と、丁寧に秀一にあやまつた。
「ごめんね、──返事してよ」
「うん」
 ──おしげは、さうだ、秀ちやんとお酉様へお詣りしようと思ひついた、豊太郎にも、おきよにも面当てになると考へた。
「かんばんまで遊んでるでしよ」
「うん──いいよ」
「それからね、仁王門の側で待つててくれない」
「──待つててもいいけど、なぜ」
「お酉さま」
「ああ、──今年は三の酉もあるんだね、不景気、火事多しか」
「いやなの」
「誰もいやと云ひやしない」
 すつかり晴れあがつてゐた。おしげは、豊太郎に早めに暇を貰つて、着がへるとさつさと新しいよそ行きの下駄を出した。
「花屋敷の表だよ、いいね」と、しつこく豊太郎は小声で云つた。
 うなづいて、仁王門まで駈けて行くと、酔つ払つた秀一は、門柱と押しつくらをしてゐた。
「──滑稽ね、腕押ししてたの」
「ああ」
 米久通りへかかる時、おしげは暗がりを見すかすやうに、小腰をかがめて、花屋敷の方へ眼をやつた。
「何してるんだ」
「知つた人がゐるやうな気がしたもんだから」
 十二時をすぎたばかりの鷲神社は、初酉のお札を貰はうとする人たちで、身動きも出来ないほど、混雑してゐた、二人はその中に捲き込まれたが、しつかり掴まつといでと、秀一は手を握つてくれた、大きな人群れはまるで蛇のやうにうねつて、ともすればおしげは浚はれさうになつた。
「秀ちやん、下駄がどつかへいつちやつたよ」
「──見つかりやしないよ、──」……