第五章「指揮官たちの人心掌握術」と、第六章『武士たちの「戦後」』を読む。戦場に出てきて戦うよう命令する「軍勢催促状」が、戦争の大規模化に伴い、南北朝時代には発給が飛躍的に増加している。さらに注意すべきこととして、「命令」と呼ぶにはあまりに丁重な「軍勢催促状」が多く含まれている。「命令」というより「勧誘」に近い、大将たちの工夫を凝らした勧誘術を紹介しているのが、第五章である。
「貴族は歌を詠んだり蹴鞠をしたりと優雅な生活を送っていた、というイメージがある」が、南北朝の時代には、「多くの南朝方の貴族が指揮官として参戦」しているのである。北畠親房・顕家(陸奥守=陸奥国府の長官)父子は、後醍醐天皇の信任を得て、陸奥国の平定に成功している。
……陸奥将軍府の支配機構は、結城宗広ら陸奥の武士を要職に就け、また旧幕府の吏僚層を積極的に登用するなど、武士をかなり重視したものだった。この一事を見ても、北畠親房・顕家父子が単なる守旧的・観念的な公家ではないことは明らかである。後醍醐天皇もこれをバックアップすべく、建武二年に顕家を鎮守府将軍に任命した。後世の歴史家が顕家の政庁を「陸奥国府」ではなく「陸奥将軍府」あるいは「奥州小幕府」と呼ぶのは、このためである。
現実を直視し、旧幕府に似た支配体制を構築し、陸奥の武士たちの支持を集める。それが、北畠顕家が短期間に強大な軍隊を創設することができた最大の要因であった。……(p.192)
味方として参戦したいと申し出てきた石川一族の本領安堵の要求に対し、「現在、石川氏の本領を支配している人々に対しては、どんなに小規模な所領であっても、ただで召し上げたりはせず、代替の所領を与えるので、どうか安心してほしい」としながら、いままで敵対していた者がいきなり本領すべての安堵を求めるとは、「商人のごとき所存」と一蹴した、北畠親房の態度について戦後の歴史研究者は厳しい批判をしてきた。しかし、北畠親房と石川氏との仲介を行った結城親朝の白河結城氏と石川氏はライバル関係にあり、「敵を勧誘しつつ、従来からの味方の反発を避けるには、慎重に落とし所を探る必要がある。新しい所領がほしいという石川氏の虫が良すぎる要求は拒絶しつつ本領安堵は認めるという親房のバランス感覚はそう悪くないと思う」とのことである。室町幕府の場合、降参して、味方として戦功を立てたときのみ本領を安堵したのである。この後、石川氏の多くは南朝方に参じている。また、「恩賞としての官位授与を始めたのは建武政権であり、南朝はこのシステムを引き継いだ」が、北畠親房は、「かなり熱心で、配下の武士たちが任官できるよう、しばしば推薦状を書いてやっている」。
「軍陣の御下文(おんくだしぶみ)」という、戦場に駆けつけた武士に対して、その場で将軍が与える安堵状・充行状(あておこないじょう)が、南北朝時代になって出現した。「誰の所領なのかも確認せずに恩賞地として与えてしまった結果、一つの所領に関して二人の武士が下文を持つ事態が発生することも珍しくなかった。このようなバッティングを解消するために替地を与えるというケースも多かった」そうで、敵方を勧誘するための策として約束手形を乱発したわけである。「恩賞として与えられる所領に限りがある」から、幕府方・南朝方を問わず、大義名分を説く書状によって武士たちの心をつかもうともしている。
勧進僧が暗躍しているところもこの時代の特徴なのか。歌舞伎「勧進帳」を思い、面白く読んだ。中世においては、「勧進」とは、寺社の堂塔の造営・修復や道路・橋などの建立・修理に際して、身分の上下を問わず広く寄付を募り、作善を促すことを意味し、その基本的な形態は勧進聖・勧進聖人と呼ばれる律僧や山伏が勧進帳を携えて諸国を遍歴し、人々から喜捨を求める、というもの。陸奥の「僧形の武士」岡本観勝房良円は、足利尊氏の「東国御使節として東国に下れ」の命令を受け、敵方の関門を潜り抜け東国武士たちに会いに行き、東国武将を説得して味方につけるなどの「軍功」をあげている。
第六章では、内乱の収束について、武士たちの「変化を嫌い、冒険を避け、安定を求める気持ち」の芽生えが背景にあることを述べている。
……従来の研究は、武士たちが富と名声を求めて喜び勇んで戦乱の渦に身を投じてきたかのごとく南北朝を叙述してきた。そういう側面がなかったとは言わない。だが、鎌倉幕府の滅亡から既に三〇年近く経過し、潮目は変わりつつあった。戦場を疾駆した室町幕府の功臣たちも、五十代、六十代の老境に入っていた。功成り名を遂げた彼らは度重なる戦争に倦んできた。そして“三十年戦争„を生き延びた末端の武士たちも、積極的に攻める姿勢から、勝ち取った果実を守る姿勢へと変わってきた。つまり、リスクの大きい遠征に嫌気がさしてきたのである。……(p.248)
足利義満政権(実質は細川頼之政権)が最初に行った政策が、「応安大法」の制定。義詮(よしあきら)の寺社本所保護法の路線を継承し、寺社本所への所領の返還を定めたものである。寺社本所領のうち、禁裏(天皇)仙洞(上皇)を本家とする王家領荘園、藤原氏の氏長者を本家とする摂関家領荘園および、本家職(しき)・領家職ともに寺社が持つ荘園=一円仏神領の荘園については、いっさいの半済(はんぜい:足利尊氏が寺社本所領の年貢半分を兵粮料所として守護に預けたことに始まる)を排除し、特別に優遇したのである。これら三つ以外の「諸国本所領」については、当面半済を認めることとした。ただし半分の土地を本所側の雑掌(荘園の管理人)に引き渡せとし、武士が丸ごと荘園を実効支配している状況を踏まえ、それなりに本所の権利を保護しようとしている。
……現実の適用例を見ると、応安大法の効果は、武士が土地の支配を継続するが年貢を分ける際に寺社本所側の取り分を少し増やすとか、寺社本所の権益が若干回復した程度にすぎない。威勢の良い掛け声とは裏腹に、応安大法は実効性に乏しい法令だったのである。政策というよりも施策の方針と見た方が実態に即しているだろう。……(p.255)
応安大法は、一種のスローガンとして発令されたとはいえ、細かい付則がついた、中世の法としては珍しく体系性を持っていたことは事実である。
軍事同盟として成立した国人一揆は、「平和」が訪れると、その目的は「共に戦う」から「共に訴える」へと転換した。応永6(1399)年、足利義満と大内義弘(足利満兼が支援)との間の畿内での衝突をめぐって、義満は西国の武士たちに大内義弘討伐のために上洛を、一方、満兼も諸国の武士に参戦を呼びかけているが、石見国では周布氏・益田氏ら地元の武士たちは一揆を結び、自分たちの所領を守ることしか関心がない。しかも「戦闘を一応は念頭に置いているものの、権利を侵害された場合の主な対抗措置は、幕府ー守護に対する提訴である」。
裁判が大事な時代になったのだ。「誰がその土地の所有者かということを確定するにあたって、証拠文書はもちろんのこと、近隣住民の証言も重視された。だから近所の武士と一揆を結ぶのは、幕府ー守護に提訴する上で非常に効果的だった。かくして一揆は、戦争互助機関から訴訟互助機関へと変化していくのである」。
「在日米軍と自衛隊によって守られた安全な日本で平和を叫ぶよりも、実際に起きている虐殺や紛争を止めるための具体的で実現可能な提案をする方が、優先されるべき」→細谷雄一「日本ではなぜ安全保障政策論議が不在なのか」 | 国際政治の読み解き方 http://t.co/x3UoF0B5YA
— Yuichi Goza (@goza_u1) 2015, 8月 1
戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)
- 作者: 呉座勇一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/01/24
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (13件) を見る