鳶魚の「読売に唄われた安政大地震」

 
 江戸時代についての考証家三田村鳶魚(えんぎょ)が亡くなったのは、1952年5/14である。わが書庫の『三田村鳶魚全集』(中央公論社)から、第九巻を取り出し「読売に唄われた安政地震」を読んでみた。
 http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collectionthe45/the46/tabid/3612/Default.aspx
  (「安政の大地震大火絵図:東京都立図書館」)
 http://www.bo-sai.co.jp/anseinankai.htm(「安政南海地震:防災システム研究所」)
 ※読売:江戸時代、日々の事件を刷り物にした瓦版を読み上げながら街中を売り歩いたこと。また、その人。
……我等は焼かれた民戸の実数を検覈(けんかく※きびしく調べること)するに暇がない。しばらく概数についてかく言うに過ぎぬ。けれども丸の内の大名屋敷、神田及び本所・深川の旗本・御家人の邸宅の被害は、民家以上であって、死傷総数一万五千という、その三分の二は武家地から出ているのを見ても、武士階級の災厄が、町人よりも大きかったのは明白である。
 倉卒(そうそつ※急なこと)の際に忙しく発行されたこの印刷物は、江戸の歓楽を誇る三千の全盛、五町の栄華がたちまちに滅亡したことをいい、また猿若三丁の戯場の延焼したことを説き、「こゝろへちがへば天めがつきる、かはへ子をすて、おつとに別れ、一人こゝろで、どうしたものよ、しあんしかねて十万にくれる、これをきいても、世上の人よ、ひびのつとめをだいじにいたし、こゝろへちがひのないやうになされ」と結んだ。当時誰もこの震災を天譴(てんけん※天罰)と直観したらしい。そうして深く反省しなければならないように感じた。
 幕府の運命はすでに切迫していた。武士階級の滅亡は、十四年後にあるのを誰が心付いたろう。天譴は緊(きび)しく武家に加わった。あるほどの彼等の邸宅に、著しい被害のあったのを、何と考えたろう。……(同書p.357)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110611/1307764320(「天人の分:2011年6/11」)


⦅写真は、上千葉県九十九里海岸近くの津波避難タワー、下東京台東区下町民家のヤマボウシ(山法師) 。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆