国際政治学者の「大きな話」



アステイオン(AΣTEION)』086号掲載、池内恵(さとし)東京大学先端科学技術研究センター准教授の「二十一世紀の大きな話、あるいは歴史を動かす蛮勇」は、ウォルター・ラッセル・ミード著『神と黄金』(※God and Gold:邦訳『神と黄金』上・下巻、寺下滝郎訳、青灯社)について学会誌に制約の下で載せた紹介のみの論稿を、制約から解放されその意義の評価を含めた「拡大バージョン」として発表している。原著発刊は2007年とのことであるが、その議論は情勢的には現代米国におけるトランプ大統領登場の思想史的・精神史的基盤(の重要な一端)=反知性主義の伝統を指し示している、とも読めるようである。
「我々が今どのような時代を生きているのか、今後何が起こるのかを、単純な道具立てで、巨視的な視点で論じてみること」が、専門家である国際政治学者に期待されるところであるが、池内氏によれば、「もっと小さな範囲に対象を限定して、精緻な仮説を提示し、巧みに概念枠組みを設定し、限定された範囲での因果関係を緻密に検証することで、専門研究者は評価を得て、地位を築く」のであり、「普通はこういった大きすぎる問いを発して答えようなどとはしないものである」。ところが、『神と黄金』の著者は、「蛮勇をふるって」、しかも「価値判断を剥き出しにして」大きな話を語るのである。「依然として厳然たる覇権国である米国の、覇権国としての行動を支える行動様式や価値規範を、一般市民に広がる信念の次元で論じている」ミードのこの著作を黙殺することは難しいのである。
「当時の米国の多幸感と全能感を反映しているからこそ幅広い読者に受容された」フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(1992年)や、「世界各地で生じる民族・宗教に根ざした対立軸による地域紛争に直面させられた覇権国の憂鬱あるいはパラノイア的不安を表出していた」サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』(1996年)など、覇権国の知識人の立場での構想でなければ、小国の著者の「大きな話」は「よほどの卓越性がない限り、誇大妄想・大言壮語と受け止められかねない」。系譜的には「西洋近代の推進者としてのフランスの正統性や、フランス型の近代性にこそ普遍性が存在することを論証しようと」した、エマニュエル・トッドの『帝国主義アメリカシステムの崩壊』(2002年)、現在栄耀栄華を極める覇権国に『やがて訪れる衰亡について「老婆心から」忠告する、あるいは名誉ある衰退の作法について、経験に基づく知恵を授ける、といった形式の世界秩序論』の英国のニーアル・ファーガソンの、それぞれの時代の要請に叶った著作などがある。
「米国の覇権による世界秩序が綻びを見せながら、それを置き換える新たな世界秩序の姿が不透明であるとするのが現在の支配的な論調といえよう」としている。なお米国の覇権システムの維持が可能であると考える根拠として、軍事力による強制や経済力による説得にパワーの源泉を求めるのではなく、文化や価値観の伝播を通じて他国の選好ひいては政策に影響を及ぼすソフト・パワー論が主張される。これと多く通底するものとして、米国が主導して確立したリベラルな規範と制度の普遍性、公共財としての中立性あっての世界秩序の形成であり、それに従うことが各国の選択の合理性であるとする、リベラルな多国間主義の議論がある。残念ながら例外になりそこなったものはあっても、日本発の世界秩序に関する体系的・包括的な構想は生まれていないとのことである。
 さてミード著『神と黄金』の、歴代の「大きな話」の系譜の中での立ち位置の特異性について、池内氏はまとめている。
1)覇権国の立場からの世界秩序認識である。
2)米国の覇権の持続性を主張している。繰り返し浮上する悲観論を、否定あるいは拒絶している。
3)経済・軍事面でのアングロ・サクソン陣営の勝利を、米国の現在の覇権の絶対的な前提としつつも、それを可能にしたキリスト教や資本主義の精神に重点を置いて議論を行なっている。
4)現状の米国主導の世界秩序への批判者を「ワスポフォーブ(ワスプ嫌いの人)」と呼んで、その批判を一面で正しいと受け入れた上で、その人たちが批判するアングロ・アメリカ世界の価値観こそが現在の世界秩序を可能にしていると「開き直る」。
5)文明論的要素を色濃くしながらも、文明間の衝突については、主に米国側の謙抑によって回避できるとし、覇権国の意志と主体性を強調している。
6)米国の覇権は、特定の固有の価値観への信奉に支えられているのであり、それを自覚する必要と肯定する必要をともに主張している。米国は自らの価値観を信奉しつつ、それが普遍的であるとの傲慢さを遠ざけることによって、覇権を持続させることが可能となると説いている。
 ところで標題の「歴史を動かす蛮勇」の「蛮勇」とは、さしあたっては専門家が「大きな話」を構想する大胆さと勇気ということなのであろう。それで「動かす」歴史とは何か、一般素人にはわからない。