二.二六事件と昭和天皇

 二.二六事件のときの蹶起軍に対する昭和天皇の揺るぎのない対応については、昨年11/27に亡くなった評論家・思想史家、松本健一氏の『三島由紀夫二・二六事件』(文春文庫)の次の記述で、あるイメージをもっていた。
……二・二六のさい、天皇は「デクノボー」でなく、むしろ蹶起軍を「反乱軍」だと明確に処断する意思をもっていたのは天皇だけであった(これに、石原莞爾を加えてもいい)。しかし、北一輝にとっては、国家支配の「機関」であるはずの天皇が、みずからその一人の意思を表わすはずがないとおもえたのである。そこに、北の意思を超えた歴史のパラドックスが顕われてくるわけだ。……(p.72)
 ところが本日の電子版「日本経済新聞」寄稿、筒井清忠帝京大学教授の「クーデター阻止した意外な人物 二.二六事件研究 」によれば、天皇の断固たる姿勢を支えたブレーンが存在したとのことである。
 http://www.nikkei.com/article/DGXMZO83600550U5A220C1000000/
           (『「日本経済新聞」2/26「歴史豆知識」』)
……しかし、その昭和天皇は終始鎮圧の姿勢を変えなかった。当時まだ34歳、若き君主の方針を支えたのは誰だったのか。筒井教授は意外な人物の名をあげる。軍部に近いと言われ、戦後はA級戦犯として裁かれた木戸幸一内大臣(事件当時は内大臣秘書官長)だ。これまでは軍国主義の台頭を阻止するどころか、逆に促したひとりとみられており、一般的に木戸氏の歴史評価は芳しくない。対米開戦につながった東条英機首相を実現させたのも木戸氏だ。しかし二.二六事件では「見事な対処策を起案した」と筒井教授は評価する。木戸氏は天皇の方針を2点に絞った。暫定内閣を許さないことと、反乱の断固鎮圧である。……
 さらに驚いたのは、松本氏も蹶起軍を「反乱軍」として対処した人物としている石原莞爾は、むしろ好意的な立場であったとしていることである。
……通説とは正反対に実は二.二六事件に好意的だった大物幕僚もいる。満州(※満洲)事変(31年)の立役者、石原莞爾参謀本部作戦課長(=大佐)だ。事件当時、青年将校らに対して「言うことを聞かねば軍旗を持ってきて討つ」と面罵したと言われていた石原大佐だが、実際は26日には自主的に参謀本部の建物を青年将校側に明け渡していた。その後も間接的に交渉を試みたり、有利になるような解決策を陸軍大臣に進言したりしていた。「青年将校側が最後に信頼して頼みにしたのが石原大佐だった」(筒井教授)。……
 歴史についても、福島原発事故後の論議をめぐって開沼博氏が批判的に主張している、「科学的な前提にもとづく限定的な相対主義」の立場で考察することが肝要であろう。もっともこちらは、歴史的事実に関してみずから調べることには怠惰であるが。
 https://cakes.mu/posts/8473(『cakes・開沼博:もはやメディアの「両論併記」型は、百害あって一利なし!』)