村上隆『芸術闘争論』(幻冬舎)を読む


 今を時めくアーティストで有限会社カイカイキキ代表村上隆氏の『芸術闘争論』(幻冬舎)を読んだ。まず現代日本の美術界および美術教育について批判し、米英を中心とする世界のアートシーンで通用する、力のあるアーティストが生まれるための実践的な提言をしている。みずからの作品創造のプロセスと苦心にも触れているので説得力のある主張となっている。カタカナ言葉が多いことに閉口し感覚的にはわからないところもあるが、議論の展開はたどり易い。次の認識が通奏低音である。
……首輪というとネガティヴに感じるかもしれません。けれど、これをルールと考えたらどうでしょうか。日本は世界の中にあるのです。ハイブロウアート対日本で考えると、日本の中だけで野良犬をやって、それで自由だといっても仕方がないのではないか。むしろ世界のルールを拒絶することで、社会とつながる自由、世界に出て行く自由、世界のアートシーンで活躍する自由を失っているのではないか。それがぼくの言いたいことです。……(p.68)
 何が藝術かという問いに対して、「人間があるフォーマットの中でプレイする時に出てくる表現域が期待値を超えた時、それは芸術的な表現であると、言うことができる」との村上氏の捉え方は面白い。
 この本で一番の眼目は、現代美術を見る座標軸=ルールである四要素の解説である。「鑑賞編」でまず取りあげられているが、鑑賞の仕方はそのまま作り方にも通じるわけで、「実作編」でもそれぞれについて作品創造の過程に即して述べている。刺激的で文学の現場においても大いに学べるところがある。この四つは有機的に連関して、鑑賞法ともなり作画法ともなるのである。
◯構図:「画面の四方に目が行き届き、目線の移動をいろいろ変化させるもの」が構図法である。「絵画になっているのか」どうかは、「画面四方に作者の支配力、画面を支配する力がきちんと及ぼされているか」で決まる。無数のドクロを配置した「私は知らない。私は知っている。」と、いっぱいの目がついた花を描いた「天国のお花畑」の二つの作品創造の過程を述べている。
◯圧力:「芸術を作る時の一枚に対する執着力、もしくは芸術の歴史そのものを作ろうとする執着力、そういう執念みたいなものが画面を通じて、もしくは作家の人生を通じてでてくるもの」が圧力。死後その夥しい作品が発見された、ヘンリー・ダーガーHenry Darger)のように「強力な圧力があるために、構図が成立してくることがありえる」。「圧力のない作品を作ったらどんなに取り繕っても、誰も振り向きはしません。芸術の世界は厳しいのです」。
◯コンテクスト:これまでの美術史が重層化されているということである。たとえば1980年代に活躍したアニメーターの金田伊功(よしのり)の「爆発シーン」のフォームは、彼自身の作画の過程で重層化されている。そして日本美術史をたどれば狩野山雪の「老梅図襖」(メトロポリタン美術館蔵)の梅のフォームそっくりである。村上隆作「マイロンサムカウボーイ」には、金田伊功のフォームが取り込まれている。戦後アメリカ美術史の前に、まずは狩野山雪金田伊功という重層化がなされているのである。「歴史が串刺しにならなければ現代美術ではないわけです」。
◯個性:個性とは自然発生的なものではなく、ハイコンテクストにつくりあげていくものである。旨いラーメンにレシピがあるように、米英中心の現代美術にはルールがある。それを知ることなしに、表現における自由など実現不可能である。


狩野山雪「老梅図襖」)
 国際舞台で活躍できるA級アーティストになるためには、西欧における現代美術で好まれる1・自画像、2・エロス、3・死、4・フォーマリズム(歴史を意識すること)、5・時事の五つのコンテクストをシャッフルすることを心がけることである。展覧会でのよい作品とは、第1にサプライズがあること、第2に技法上の完成度、第3に納得させる何かがあることである。A級かB級かのわかれ目となるのは、1・文脈の説明、2・理解者の創造、3・ネットワークの三つである。
「あとがき」での、アーティスト村上隆の述懐には共感できる。
……芸術家は、作品を作ることしかできません。今、ぼくのまわりで起こっている無理解や小さな悲劇などは、鼻糞のようなもんだ、最後にはいつもそう思っています。……(p.290)