「暗闇を修理する人」「暗闇をつくる人」


 大崎清夏詩集『指差すことができない』(アナグマ社発行)を読む。購入してから一月ほどは経っているだろうか。炬燵に坐るついでに、脇に置いたこの詩集のページを気まぐれに開いて読んでいる。「夜が静かで困ってしまう」、「暗闇をつくる人たち」、「ゆっくりと流れる世界の粒子」に魅かれる。現代詩についてのこちらの読解力は甚だ怪しいところがある。勝手な思い込みで味わっているのである。
 この詩集を『東京新聞』3/1「詩の月評」欄で紹介している詩人の文月悠光氏は、とり上げた4編の詩の一つ「闇をつくる人たち」について、
……「暗闇をつくる人たち」は、〈暗闇を修理する仕事〉にまつわる一編。〈暗闇の修理〉とは死を悼むことか。〈この人の修理した暗闇の駄目になったのを修理した。/この人が死んでからもう随分経っていた〉。他人の死を、その悲しみを修繕していくことで、人は最期、自らの暗闇(死そのもの)を引き受けるのだろう。……
 この詩の最終聯(stanza)は、以下。
……ある日わたしは自分の修理場で/ちいさく伸びて死んだ。/わたしのために何人かの人が声をあげて泣いたが/わたしはひとつもその声を聞かなかった。/そのかわり/しばらくするとこの人がやって来た。/そして右手をわたしに指しだしてニニニとわらい/へんなかたちの工具を一本くれた。/わたしたちはすばやく握手した。/そしてすぐその足で/それぞれの仕事場/暗闇をつくる仕事場へ向かった。……(同書pp.59~60)
 ひとはみな、「暗闇を修理する人」からやがては必ず「暗闇をつくる人」の側に〈仕事場〉が変わるのである。多能性細胞が存在しようがしまいが、このことは不変の真理である。ラウドスピーカーでまき散らされる声のノイズで、忘れてしまうことなかれ。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町のある植え込みに咲く富貴草(吉祥草)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆ ※富貴草は草花ではない。低木。