江戸の花卉園芸文化

 渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)第十一章「風景とコスモス」で、江戸時代において日本は世界の花卉(かき)園芸文化の第一次センターであった中国を凌駕し、第二次センターであった西欧よりはるか先に進んでいたとの中尾佐助の論を紹介している。拠点であったとされる染井・巣鴨のあたりは馴染みの地域で、親近感をもって読める。      
……花卉文化が大衆に普及し始めたのは、中尾によると元禄期からで、西欧より二百年早い。「花見や菊人形のような大衆の参加する花卉文化が発展し、花卉の同好団体が多く誕生し、植木屋、庭師といった花卉園芸の専門業者が出現し、園芸書の出版がはじまった」のは、世界にさきがけて日本においてだったのである。椿と桜の品種改良は早くも室町時代に始まり、徳川期に入ると椿は欧州に紹介されて評判をとり、桜は四、五百品種、梅は二百品種の多きに達した。世界的に見てもこのように「高木性の花木が大改良された例は見あたらない」と中尾は述べている。……同書p.459)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の赤い椿と白い椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆