大根の葉の


 近所の農家の方から、この朝穫れたての青首大根を一ついただいた。みごとなできばえである。さてどうやって味わおうか。愉しみではある。大根の葉といえば、高濱虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」の句が思い浮かぶ。朝日文庫高濱虚子集』所収の澁澤龍彦の「物の世界にあそぶ」というエッセイが面白く、「大根の葉」とともに思い起こされる。
 澁澤龍彦は、もともとはこの句と、「石ころも露けきものの一つかな」の二つだけしか、虚子の俳句作品は知らなかったそうで、一文を求められて虚子俳句をひとわたり目を通し、そのうえで確信をもってこの二句によって虚子俳句の世界を論じられるとしている。
……秋草のみだれ咲く野で石ころが露にぬれるのは当り前であり、潺湲(せんかん)たる小川の水に大根の葉がたちまち流されてゆくのも当り前である。当り前の物理的現象である。しかしこの現象世界の事物の一つをクローズアップすることによって、現象世界の背後から、無気味な物自体がぬっと顔を出したような印象を私は受ける。この石ころ、この大根の葉は、現象であると同時に物自体でもあるような気が私にはする。
 物自体とは、申すまでもなくカント哲学の概念であり、要するに私たちが見たり聞いたりすることのできる現象の背後にあって、この現象の原因となる不可知物のことである。私たちの感覚にはふれてこない、現象の奥にかくれた物そのもののことである。むろん虚子自身には、そんな御大層ななものをあばき出したつもりは毛頭なかったであろうが、花鳥諷詠のマニエリスムによっても少しも曇らされることのなかった作者の目が、それを否応なく引きずり出してしまった感じなのである。……(同書pp.8~9)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のヒイラギナンテン(柊南天)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆