久保田万太郎


三田文学・春季号』(三田文学会)で、「久保田万太郎の俳句」を特集している。久保田万太郎の世界は、戯曲とその舞台公演で知るのみであったが、この特集中の「対談・小澤實×高柳克弘:久保田万太郎を通じて出会う俳句」で、俳句も読んでおかなければと刺激を受けた。藝についての二人のやりとりのところは、とくに面白かった。
 http://www5c.biglobe.ne.jp/n32e131/haiku/mantarou.html(「久保田万太郎の俳句作品」)
小澤:芸というのは、本来もっと言われないといけないのでしょうね。
高柳:僕の中でも、芸ではなく感覚こそが詩だと思う部分がありつつ、やはり芸がないとだめだという思いもあるんです。
小澤:芸という言葉は藤田湘子の文脈にはなかったね。それよりも、感覚や描写の力が優先されていたような気がします。
高柳:でも、よく言われますけれども、芸というのは、そこにうまさがあると思わせたら、それはもう芸じゃない。至上の芸というのは、水のごとく何も工夫を凝らしていないと思えるものです。
小澤:苦労を表現に見せてはいけない。
高柳:万太郎はまさに芸の極致という感じがします。
小澤:若いときには句会ではなく運座に出ていた。それが大事だと思うんです。純粋に文芸的な場ではなくて、それこそ景品としてミシンが出たり、お米が出たりする。そういうところで切磋琢磨してきた芸があって、それは子規、虚子の勉強の仕方とは全然違う流れだと思います。それを通して近世の俳諧の技術が流れこんできていると思う。
高柳:「葉桜にみえて昼火事もゆるかな」も私はすごく芸を感じます。これも、もともとは「葉桜にもえてゐる火事みゆるかな」という句だったのを芸の力で高めている。
小澤:「みえて」は大概の句においては消したほうがいいけれど、これは効いていて、たしかにおどろきがでる。葉桜と昼火事というのも、色彩的に妙にきれいだよね。
高柳:葉桜の鮮やかな緑と燃えている炎の生々しい赤さ、ヒラヒラとする炎の感じとか。火事を美しく表現しているところに、衰滅への甘美な陶酔感があるような。
小澤:歌舞伎の舞台みたいな鮮やかさが現実にあって、それがそのまま不思議な世界になっている。……(pp161~162)

 昔(1963年)第一生命ホールにて、文学座久保田万太郎追悼公演『雨空・萩すゝき』を観たことがある。


 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110227/1298819466(「コンヴィチュニー演出の『サロメ』:2011年2・27」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130502/1367490029(「樋口一葉誕生日:2013年5/2」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140501/1398912540(「蜷川幸雄演出『にごり江』は観ている:2014年5/1」)