根源的不公正としての美醜格差


 
 当時の超有名女性ジャーナリスト、フランソワーズ・ジルー(Françoise Giroud)と、イケメン哲学者ベルナール=アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Lévy)との対談『男と女・愛をめぐる十の対話』(三好郁朗訳:東京創元社・初版1995年6月)は、パリでの原著刊行1993年であるが、古くて新しい主題をめぐる議論の演劇的応酬でスリリングな展開、いま読みなおしてもあたりまえのように新鮮で魅力的である。今回、2日目の対談「根源的不公正としての醜さについて」に注目した。

フランソワーズ:ことはもう少し複雑だわ。たとえば、わたしたちのショーウィンドーとも言うべきテレビには、ハンサムでない男性も大勢出ている。名前をあげてだれかを傷つけるようなことはしたくないけど、たとえばテレビの記者がみんあ美神アドニスのようだとは言えないでしょう。でも、男性の場合ならすべてが大目に見られる。脂肪も、皺も、髪の後退も……コマーシャルにはありとあらゆるジャンルの男性が出ている。ところが女性となると話がすっかり違ってくるの。そこにはタブーがある。女性は美しくなければならない。少なくとも、眺めて心地よくなければならない。とてもすばらしい女性記者がいるのに、声ばかりの登場でほとんど姿を見ることがない、彼女が太っている、太りすぎているからなのね。
ベルナール:われわれはみな、そうした排斥の共犯なんです、あなただって……
フランソワーズ:そう。正直なところ、わたしだってやわらかい髪のほっそりした美人を見るほうがいい。醜さのタブーは強力だわ、年齢のそれもね……でも、テレビにはむしろ、そうしたタブーの激しさを和らげる傾向があるように思う。(略)

 その人本来の美醜に年齢という条件も加わって、視線や好悪、(外観による)人物評価はさらに複雑となるのだろう。

フランソワーズ:(略)何時間もかけて自分に見ほれ、手入れし、磨きあげ、香水をつけ、髪を整え、小麦色に肌を焼き、このドレスを試し、あのドレスを試し、ほんとうに何時間も過ごす女性がいる……これなんか、ナルシシズムといってもおとなしいものよね。でも、男だってそうでしょう。これほど目立つことはないし、ここまで身体と直結していないでしょうが……それに、今日の男性は、女性と同じように、老いることに強迫観念をもっていることが多い、驚くほどだわ。
      (略)
ベルナール:ぼくにはわからない。むしろ逆に、年齢の問題は男性と女性の基本的不平等でありつづけるような気が、ぼくにはする。
フランソワーズ:一般に、同じ年齢の男性とくらべると女性のほうが年を取って見えるということなら、そのとおりだわ。でも、ふつう思われているのとは違って、むしろ女性のほうが男性よりもうまく老いを受け入れるものよ、わたしはそう思う。
ベルナール:女性が受け入れるというのと、女性に向けられる周囲の目というのは、また別ものです。この周囲の目こそが、老いていく女性にとって恐ろしい。
フランソワーズ:老いてくると、自分の目のことだけで大変なのよ。ココ・シャネルがね、彼女のように有名で裕福な女性がどうして男っ気なしに老いていくのかって訊かれて、きびしいことを言っているわ、「老いた男性なんて、おおいやだ。若い男だなんて、なんて破廉恥な!」 

 フランソワーズ・ジルーは、自分が好きかと問われて、「いいえ。自分が老いていくのを見るのは嫌い。醜いんだもの」と率直に応じている。今日は鏡の前でヒゲを剃るのはやめにしたい。二人の対話を読んでそう思ったことである。

男と女・愛をめぐる十の対話

男と女・愛をめぐる十の対話

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のオダマキ苧環)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆