マルクス疎外論の再評価(その2)

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 昔から同時に何冊もの本を読み進める読書習慣(癖?)があり、いま注目のマルクス研究家田上孝一氏の『マルクス哲学入門』(社会評論社)も、一気に読了というわけにはいかない。
 さて今回は宗教(ユダヤ教)に関して、その著『キリスト教の本質』で「人間は宗教において自らの本質を神の中に対象化し」自分自身を喪失してしまうとしたフォイエルバッハの宗教批判を継承して、マルクスは、『独仏年誌』の第二論文「ヘーゲル法哲学批判序説」で「宗教は民衆のアヘンである」との名言を吐いた。これは「宗教をぶっきらぼうに否定しているだけ」のように捉えては誤りである。「ユダヤ人問題の根はマルクスによれば、実はユダヤ教という宗教では」なく、「暴利を可能にする資本主義的な経済のあり方こそが問題だった」のである。

 とはいうものの、神を人間的本質の対象化に見るフォイエルバッハの宗教批判それ自体は正しいのであり、それはあらゆる批判の前提としなければいけないのもまた確かなのである。だからこの「ヘーゲル法哲学批判序説」は、「ドイツにおいて宗教の批判は本質的に終わっていて、そして宗教の批判は全ての批判の前提である」という宣言で始まるのである。
 この一文は決定的に重要である。というのは、これは本当にマルクスにとって文字通りのことだからである。実際マルクスは全ての批判をフォイエルバッハの宗教批判をモデルにして行なったのである。本質的に否定的な対象は、人間の本質の否定的な対象化なのである。フォイエルバッハが神の中に疎外された人間の本質を見るように対象の否定性を探るというのが、マルクスの終生変わらぬ基本的な方法論である。実際『資本論』は、労働者が作り出した生産物が資本となって労働者を支配する社会のあり方を批判した書物である。『資本論』もまた、フォイエルバッハによる宗教批判を前提にして、資本主義的な経済のあり方を批判しているのである。マルクスは自らの宣言に終生忠実だったのである。後の解釈者が、マルクスを文字通りに受け止められなかったのである。(pp.55〜56)