犀星文学の耽美性


 10/22(土)広島県呉市「ビュー・ポートくれ」にて、室生犀星学会秋季大会が催されるとのことである。研究発表に一つに、文藝評論家河野基樹氏による「後記 炎の金魚考」がある。氏の「発表要旨」によれば、犀星畢生の小説作品「蜜のあはれ」に附された「後記 炎の金魚」を著者自身の解題として精読し、作品の〈後日談〉である「火の魚」にも目配りしつつ、「蜜のあはれ」理解の足固めをしたいということである。
 この「火の魚」を脚色したNHKのテレビドラマについては、すでにわがブログでとりあげている。
  http://simmel20.hatenablog.com/entry/20100624/1277369526NHK「火の魚」)

「耽美特集」を組んだ『夜想』(2006年4/23刊)誌上において、書物世界のメッセンジャーRNA)といえる松岡正剛氏は、「耽美の蠱惑」と題したインタビュー記事で、すぐれた耽美作品の一つとして、室生犀星の「杏っ子」をあげている。氏のネットでの「千夜千冊」でも、この作品をとりあげているから唐突とはいえないが、須永朝彦氏が幻想小説の傑作と推す「蜜のあはれ」ではなく、主人公の娘の成長をめぐる日常を綴っただけの、「杏っ子」をここで語っているのは面白い。
『実際にもそんな子のおっぱいがふくれてきたとか、父親の前ですらちょっと恥ずかしそうに下着を取り替えているとか、そういうようなところしか書いていない。ところが室生犀星自身が故郷には帰りたくないという視線を持った詩人だったせいもあって、自分の性とか少女性の原郷を見抜いている。それがところどころぎょっとするほど耽美的だったですね。』
 松岡氏は、「千夜千冊」で「つまりぼくには「父」の体験がない。それでべつだん困ったことはなく、またそれで何かを決定的に失ったとも思ってはいないのだが、それがどのような穿たれた陥没であるか、あるいは奇型であるのかは、やはり実感としてはわからない。」とみずからの立場を省みつつ、「杏っ子」を論じている。アカデミシャンにはない、好感がもてる姿勢である。
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0870.html(「松岡正剛・「杏っ子」』)
 この『夜想』のインタビュー記事を読むと、室生犀星学会会長の作家葉山修平氏が、「犀星文学は古典的に不滅な価値をもっているばかりではない。いまや涸れんとする現代文学の源泉となるべき〈新しさ〉をもっているのである。(「わが内なる室生犀星」『室生犀星研究・第1輯』室生犀星学会)」と書いていたことを、あらためて思い出す。

杏っ子 (新潮文庫)

杏っ子 (新潮文庫)


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