志らく演出と室生犀星

東京新聞」本日夕刊によれば、室生犀星の「性に目覚める頃」の当初のタイトルは、「発生時代」、「或る少女の死まで」のタイトルは、「暗黒時代」だったことが、新たに見つかった自筆原稿でわかったそうである。つまり「幼年時代」を含めて三部作のタイトルはいずれも「〜時代」の付く構想であったとのことである。大橋毅関西学院大学教授は、掲載誌であった「中央公論」主幹の滝田樗陰のタイトル変更指示について、「芥川龍之介谷崎潤一郎らと並べて掲載するのに、犀星の個性だった叙情性を前面に打ち出した戦略がうかがえる」としている。面白い。小説のタイトルというものは、なかなかむずかしいものだ。はじめにタイトルがあって、想像というよりも妄想によって作品ができあがることもあるのだが…。

 9/1〜9/7に、立川志らく師匠率いる下町ダニーローズの「演劇らくご『ヴェニスの商人?』〜火焔太鼓の真実〜」公演があったのだが、あいにく見逃してしまった。2009年2月の公演は、室生犀星の「あにいもうと」を原作とした舞台で、楽しめた。この折HP記載の観劇記を再録しておきたい。
噺家が演出する舞台をこの17日(火)に観劇した。東京目黒区の「千本桜ホール」というごく狭い会場での催しだ。幸い病も癒えているらしい立川談志門下の立川志らく師匠脚色・演出の『文学狂男』という芝居だ。師匠自らも舞台で演じている。室生犀星原作の「あにいもうと」を物語の柱に、「想像を絶するほどの文学書を万引きして捕まった」文学狂の囚人が監房で創作した、執行前の死刑囚が語った妄想の物語という手の込んだ設定になっている。物語の入れ子構造の中で、囚人服の登場人物たちが虚実皮膜の間を生きる。しかし、最後にきちんとオチもきかせて、落語家の芝居になっている。

 登場人物の名前が、武者公路実篤の「友情」や川端康成の「雪国」の登場人物の名前になってはいるものの、前半の話の展開そのものは、原作通りである。舞台装置も小道具もなく、すべて落語風の所作で想像力にまかせて展開し、随所に笑わされるやりとりがあり、楽しく観られた。もん(原作)を孕ませて去った「弱そうな学生あがりに見える青年」小畑(原作)役が、でっぷり体型の柳家一琴で、兄の伊之(原作=立川志らく)の「会ってみればトドみたいなやつだ」との台詞にはもう笑うほかない。兄は、妹もんを乱暴に扱うが、これは「母はあんまり酷い口を利くおれをそれが本統のおれのように憎み出し、おれを毛虫のように嫌い出したもんの方につくようになったのだ、そうしないと皆がもんを邪魔者にするからだ」との理由だった。ここのところを、多摩川の川師の父親が「おれにはわかっているのだぞ」と喋らせて、父親の包容力を強調する脚色にしている。
 後半は、「あにいもうと」の後日譚で、もんが地方公務員の別な男(=立川志らく)と結婚し、二人の男の子を生んでいる。下の子がもんになつかず、もんも冷たく扱いしばしば憎みあいいがみあうが、夫は父性を喪失していてただ成り行きに任せている。川師の父親はかつては処刑場で槍を使った刑吏の系譜にあることが暗示され、もんが下の子を嫌うのも父親に似てその出生を思い起させるかららしい。
室生犀星の「あにいもうと」をここまで壮絶なものにした人はいないと自負しております』と、公演パンフレットで 立川志らくは述べているが、なるほど鈴木忠志氏の「世界は病院である」を捩(もじ)っていえば、「世界は刑務所である」のかもしれない。しかしその前近代家庭の暴力的なぶつかりあいの中にこそ、ヒューマンなものが存在していたのだと、師匠は主張したいようである。エドワード・オルビーの「バージニア・ウルフなんかこわくない」と違って、笑いのオブラートに包まれて、はじめからたしかな情感が漂っていたのである。共演は、なべおさみ岩間沙織、原武昭彦 、酒井莉加山田貴久なべおさみはさすがに存在感があり、三田弘明の照明はみごとであった。(2009年2/23記) 
 なおこの観劇記を某SNSに載せたところ、志らく師匠(HN=キョヌ)から「世界は刑務所、その通りですね。ありがとうございました。志らく」と、柳家一琴師匠(HN=いっきん)から「ご来場ありがとうございました。」と、それぞれ丁重にコメントをいただいている。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110602/1307026614(「犀星の戯曲」)

 

【お知らせ】好評の小川匡夫カメラマンの花の写真は、氏の写真処理PC故障修理中のため休載。これのみを愉しみとするひとは、しばし待たれたし。