鈴木博之東京大学教授の『都市のかなしみー建築百年のかたち』(中央公論新社)は、文学的営為ともいえる建築学の泰斗のエッセイ集である。
現代日本の都市は、カラスのゴミあさりに対してネットという原始的な方法でしか対処できないほど、開発による〈無防備〉都市の惨状を曝し、ケータイや自動販売機などによって空間は断片化され、場所性を失っている。また、鉄道の駅はことごとくが通過駅であり、その周辺に他者との出会いの場であるべき公共空間をもたず、どこも似たような大型のステーション・ビルを完備した経済空間となりはてている。
『いまの都市は、すべてが高度な経済空間によって占められているのである。そんな町なかを歩く人びとに、公共の心など、求めるべくもないではないか。現代の都市の殺伐とした人びとの表情とマナーは、現代の都市の経済空間化を正確に反映しているのである。』
そもそも都市は、単なる抽象的な空間の集積ではなく、歴史性や文化によって彩られた場所の集積なのである。場所には地名があり、本来は空間に具体的な内実つまり肉体を与え、空間に色彩と陰影を生じさせるものであるが、その地名が、時間性を失いあたかも機械のごときものと化した現代都市の最後の拠り所として注目されるのは、「人間がサイレント・ワールドに対抗するための最後の手段、金切り声の悲鳴なのかもしれない」。
ここで鈴木氏は得意の「ゲニウス・ロキ(Genius loci)=地霊」というラテン語を用いて、あるべき都市について明解に述べている。氏の都市論の根底にある考え方であろう。
『だが空間は、時間とともに存在して場所となる。都市とは、時間を超越した真理ではなく、時間とともに存在する真実である。ゲニウス・ロキは、場所のなかにひそむ時間と、その時間のなかで形成されたかたち、つまりは場所のなかにひそむ歴史と文化を、現在によみがえらせ、生きつづけさせる力のことである。場所とは、文化を蓄積させる形式のことなのだ。それが、おそらくは都市そのものを生きつづけさせる力であろう。』
書名の「都市のかなしみ」とは、そのような場所としての空間に染み込んだ生活の匂いであり、記憶のことであろう。
『どれほどファッショナブルな街であろうとも、街には生きている哀しみのようなものがある。それのない、まっさらのピカピカの街は、歩きたいとは思わない。ふかい哀しみをもった街の息吹に身を晒しながら歩くことが好きなのだ。
東京で印象に残っているのは、西日暮里のあたりから、谷地とか何とかいう名前の商店街を通って、駒込の駅に抜け、そこから霜降り(※霜降)銀座という商店街に出て西巣鴨のあたりに出る道である。』
アメリカでは学術書は厳密な論文の形式をもっていないと評価されないと述べてから、氏は、近代的論文のアカデミック・スタンダードと、それ以前の「物語的」「随筆的」論考の精神の共存もあっていいのではないかとの、かつてアメリカで抱いた感想を語っている。まさに、この書物も「遊びの心がある」随筆的論考となっている。
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