リュビーモフの『罪と罰』

東京新聞」6/27(モスクワ=共同)によれば、「ロシアの演出家ユーリー・リビューモフ氏が、収入にこだわる役者の姿勢に嫌気が差したとして、長年率いてきたモスクワのタガンカ劇場を去ることを決めた」とある。「国立レニングラードボリショイドラマ劇場」の『検察官』&『ワーニャ伯父さん』(1983年:国立劇場)、「レニングラード・マールイ・ドラマ劇場」の『夜明けの星たち』(1989年:東京銀座セゾン劇場)、「モスクワ・ユーゴザーパド劇場」の『ハムレット』(1990年:東京パルコ劇場)など、旧ソ連邦の演劇来日公演を観劇し、連邦崩壊後の舞台、「モスクワ・タガンカ劇場」のユーリー・リュビーモフ演出『罪と罰』(1993年:銀座セゾン劇場)を観ている。



 
 その当時も幹部俳優ニコライ・グベンコ一派との分裂抗争を抱えての来日公演であった。扇田昭彦氏のインタビューに、演出家は応えている。
……『ボリス・ゴドノフ』でも『罪と罰』でも、背後の壁に大きく映し出される人間の影がとても効果的に使われていますね。あれはどういう意図から生まれたのですか。
「人間の本性は複雑なもので、一筋縄ではいかないと考えるからです。私たちの魂にも光と影があります。ドストエフスキーは『罪と罰』でそれをはっきり書きました。ラスコーリニコフとは、ロシア語で二つに裂かれた人間、割られた人間という意味ですから。その上、彼が殺人に使ったのは斧です。だから、舞台の上にはいつも斧があります。
……影の効果や、板を思いがけないやり方で使うアイデアも、あなたの発案なのですね。
「私でなくて、だれが考えだしますか? 演出家は私であり、ここでやる芝居はすべて私が作ったものです。劇団を作ったのは私だし、レパートリーもすべて私のものです。演出家の出入りがあるほかの劇団とは違います。ただし、私が(国外追放で)いなかった六年間は、私以外の人がここで仕事をしていましたが」(同公演パンフレットp.7)
 この『罪と罰』の舞台では、とくにリュボーフィ・セリューチナ演じるソーニャが印象的であった。聖性に隠された肉体性を暗示していて、刺激的であった。『罪と罰』におけるソーニャについては、かつて学んだことをHPに記載している。再録し、舞台のソーニャを懐かしみたい。
清水正(まさし)日本大学藝術学部教授の『ドストエフスキー論全集1』(D文学研究会発行)をようやく入手。『罪と罰』を中心として、ドストエフスキー作品の読み方について学ぶところが実に多い書である。「萩原朔太郎ドストエフスキー体験」との副題であるが、朔太郎のドストエフスキー受容をめぐりながら、ドストエフスキーの深い闇に迫ろうとしている。巻末論文の「わがドストエフスキー体験を語る」に考えるべき問題点が整理されている。登場人物の人名などに判じ物のような謎があったりするので、ロシア語に通じている者でないと精確には考察できないだろう。
 巻末論文では、主として埴谷雄高および小林秀雄ドストエフスキー論をめぐって、どう読みどう考察するべきか論じている。何はさておいてもドストエフスキー作品に感動することが出発点であり、この感動体験あるいは登場人物に己を擬してしまうような<青春>の読書体験を経てからの考察でなければならないということが述べられる。あたりまえではあるが、たいせつなことである。
 ドストエフスキーは同時代に、終始一貫してほとんど受け容れられなかったというのは事実として間違いであり、また、小説家としての出発は、「当時、ロシアではフランス人が書いた下層民を主人公にした軽い小説(社会の底辺に生きる人々の心理や生理を描いたもの)が流行していた」のであって、ドストエフスキーもこれに便乗して作品をものし、大物批評家ベリンスキーの評価を得て思惑通りにペテルベルク文壇に登場できたのであった。
 埴谷雄高は懐疑家としての顔の、あるいは「巨大な思索者」としてのドストエフスキーしか見えていないが、ドストエフスキーはあくまでも小説家であったのだ、と清水氏は批判する。
『この世には<緻密な観察者>も<懐疑家>も掃いて捨てるほどいるだろうが、魂を震わせながら観察し懐疑する者は稀なのである。どうしてドストエフスキーが小説を書きつづけたのか、それは彼が単なる思弁や弁証法によってではなく、具体的な人物の肉体とその魂とを通して<人間の謎>に迫ろうとしたからである。ドストエフスキーは<懐疑>を書いたのではない、<観察>を書いたのではない、懐疑し観察し、慟哭する人間を描いたのである。』
 創作にあたっても心すべきことであろう。志の高さを欠いては真の文学ではないのだ。またこのような<魂の震え>をひそませない哲学・思想など無意味であろう。
ラスコーリニコフが苦しんでいること」そのことを本質直観したのが『罪と罰』のソーニャであると、喝破したのが小林秀雄であるが、信仰を抜きにしてソーニャの全体像は捉えられないとする。 
 ソーニャの小さな貧しい菱形の部屋に、一人の殺人者と、一人の淫売婦がいるのではない。この小部屋には二千年の時空を超えて<キリスト>が出現しているのである。小林秀雄の批評の眼差しは、この<キリスト>を見ることができない。彼の肉眼はちびた蝋燭の光が照らし出すソーニャとラスコーリニコフしか見えない。
 ここにあの「ラザロの復活」が実現しているということなのだ。しかし論文「ソーニャの描かれざる<踏み越え>のドラマ」において、日本人読者の安易なあるいは憧れのソーニャ像は砕かれる。
 ソーニャはリザヴェータとともに「鞭身派(フルストイ)」と呼ばれる異端派に所属していたとされるが、この宗派は、森のなかの会合で、互いに体を叩き合う恍惚状態での祈りによって<キリスト>を降臨させ、降臨した<キリスト>と結ばれると考える。ソーニャがここで男性信者と肉体的に結ばれていた可能性もある。またはじめその読書に大きな影響を与えたレベジャートニコフなど怪しげな人物が近くに存在し、ソーニャが父の職のために、イヴァン閣下にその処女を捧げたということも断定できないことなのである。驚いた。単に倫理としてのではなく、歴史・文化としてのキリスト教とのかかわりを抜きにしてドストエフスキー作品の解読は不可能だと思い知らされた。(2008年12/11記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のクチナシ(八重)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆