◆国際プラトン学会実行委員を務める、納富信留(のうとみのぶる)慶応大学教授(当時)の『哲学者の誕生ーソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書)は、「哲学は、いつ始まったのか? 最初の哲学者は、ソクラテス—あるいは、タレスやピュタゴラス—というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でなければならない」という立場から、わが国で定着している古代ギリシア哲学史の書き換えを試みたものである。古典文献学の本場—英国ケンブリッジ大学大学院で研鑽を積んできた学者の著作だけに、ヨーロッパでの研究動向を踏まえ、伝統的に軽視されてきたクセノポンの作品にも比較考察のうえでの重きを置いている印象である。一読目から鱗が落ちるのである。
プラトンの対話篇『パイドン』は、死刑の判決を受けたソクラテスが牢獄で毒杯を仰ぐ次第を描いた作品であるが、この有り様を後日、その場に立ち会ったパイドンがアテナイよりだいぶ離れたプレイウスの町で、エケクラテスというピュタゴラス派の人物に語るという物語のスタイルをとっている。この町は、「哲学者ピュタゴラス」ゆかりの町であり、哲学者生誕の地として記憶されていたという。哲学はタレスに始まるとされ、しかし、彼に代表される「自然哲学」は探究と関心が外界の自然にのみ限定されていたが、人間の内面、生き方に関心が向けられたのは、ソクラテス以降であるとされるのが、コンフォードの『ソクラテス以前・以後』以来のこれまでの古代ギリシア哲学史の常識であった。自然哲学者たちにおいても人間の内面への関心はあったのであり、ほとんど著作の断片しか読むことができない制約もあり、さらに、時代的にも自然哲学者たちと総称されるすべてがソクラテスの前の時代に活躍したわけでもない。「ソクラテスを転換点とし、それ以前と以後とでギリシア哲学を区分する伝統的な哲学史の図式は、さまざまな疑問に曝される」ことになる。
前399年のソクラテス裁判の後、ソフィストのポリュクラテスが、「ソクラテスは、寡頭派政権を操ったクリティアスや、最後は暗殺されたアルキビアデスなどの政治家たちへの誤った教育をした」との〈罪状〉で、再告発をしたらしい。これをめぐって、プラトンやクセノポンらによるソクラテス擁護の著作活動が展開した。これらが「ソクラテス文学」と呼ばれるジャンルを形成し、前4世紀前半に哲学の潮流となったのである。プラトンの対話篇という形式も、「彼の時代に流行した」形式を「他の人々と同様に利用したに過ぎない」のであって、ソフィストと区別された哲学者としてのソクラテス像を描くことで傑出しているとしても、アリスティッポス、アンティステネス、パイドン、エウクレイデス、クセノポン、プラトン、アイスキネスらによって描かれた「ソクラテス像」のすべてが、哲学とは何かを考えさせる、ソクラテスに関する多面的な真実を表現しているのである。「ソクラテス哲学とは、今は失われてしまった「ソクラテス文学」の可能性と多様性の根源としての衝撃(インパクト)以外ではないのである」。
ソクラテスといえば、「無知の知」の哲学者と反射的にイメージがつくられるが、これは、文献的な証拠、哲学的な考察、歴史的な経緯の三つの面から、完全に誤った捉え方であると著者は教えてくれる。なるほどとここでもっとも啓発される。
まず文献的には、プラトン対話篇には「無知の知」なる用法はどこにもない。「人間にとっての正しさ、善さ、美しさ」に関して「不知=アグノイア」であることを、ソクラテスは「そのとおり知らないと思っている=認識している」とあって、「知っている」とは表現されていない。他の人々は、「知っていると思っている」、このことが「無知=ア・マティア」なのである。哲学的に考察すれば、「無知の知」を高次な知と考えるとすると、もはや「正義・善・美」を対象としない、空虚な知となってしまい、ソクラテス自身がそのような再帰的な知のあり方について否定している。無知の自己を知っている知ととることも、たえず自己を知に関する吟味に曝すことがソクラテスの哲学であったことからもあり得ぬし、無知という知ととることも、無知の根源状況をそのまま知とみなすことになり、無理である。「何も知らないということを、知っている」というソクラテス理解は、キケロから15世紀のニコラウス・クザーヌスを経由して、近代のソクラテス理解につながったのである。クザーヌスの「知ある不知=docta ignorantia」のドイツ語訳が日本語で、「無知の知=das Wissen des Nichtwissens」と訳され、定着してしまったのである。
『しかし「無知の知」という表現に潜む最大の落とし穴は、実にこの点、つまり、「無知の知」を持つソクラテスを、結局もっとも優れた「知者」であると見なしてしまうことにある。西洋哲学を導入した日本では、ソクラテスが人類の偉大な教師とされたが、概して教育学の文献において、そのような「無知の知」が強調されてきたことは不思議ではない。「知らない」という否定を絶えず確かめ、自覚しつづけた哲学者ソクラテスを、「無知の知者」として聖人に祭り上げてきた日本での一般理解は、哲学に対する根本的な無知を示しているのではないか。』
◆哲学者の中島義道氏と評論家の小浜逸郎氏との往復書簡『やっぱり、人はわかりあえない』(PHP新書)は、ヤラセなしの異種格闘技の趣あり、面白かった。七つの往復書簡から構成され、「他人との〈正しい〉つきあい方」「なぜ、ものを書くのか?」「善・悪とは何か?」「愛すること、嫌うこと」「幸せ?それとも不幸せ?」「未来はない?」「人生に哲学は必要か?」の七つのテーマをめぐって、相手の生活歴を踏まえた精神分析学的考察も交えて、辛辣な論戦が交わされている。個の人間としての資質の違いとも関連しながら、カントの立場に共鳴し、あくまでも狭義の意味での(学問としての)哲学のフィールドを守ろうとする中島義道氏と、功利主義の立場で、生活者の現実および関係性に固執し、広い意味での哲学=思想を構築しようとする小浜逸郎氏との相違が、どの問題に関しても鮮明になる。おそらく多くのひとは、小浜氏の議論に納得するだろうし、個人的にもだいたい同意できる議論を展開している。とくに、道徳と倫理の言葉についての小浜氏の見解には大いなる共感を覚えた。
『……ですから、善悪の基準は、あらかじめ決めることができずそれ自体が、人間どうしの実践を通して変わっていく運動体なのだととらえることができます(身分制社会の道徳と近代社会の道徳とは、非常に違っています)。
しかし、それにもかかわらず、われわれ人類には、全員にとって何か「善きもの」を見出していこうとする精神作用、あるいは自分が背負っている関係を少しでも「善い」ものにしようとする精神作用があることもまた確かです。この精神作用、というよりは、一種の問題産出能力とでも言ったほうが適切ですが、これは普遍的であって、当然、既成の道徳を疑う営みをも含みますから、私は、この精神作用を、道徳とは区別して、勝手に「倫理」と呼んでいます。』
ふたりの知性の違いを象徴的に示していることとして、どこかで小浜氏が「スコラ的厳密さ」という用語を用いて、「生活感覚に基づかない」哲学理論をこき下ろしたことがあって、中島氏は、「スコラ哲学は人類のすばらしい知的遺産」であり、「その思考の厳密さに敬服」しているとし、用語法に見られるその紋切り型の「哲学史」理解を批判している。中島氏はかつて、安易に「社会」観を語る議論に対して、「普遍論争」の「実在論」を素朴に信じすぎていると論評したことがあったかと記憶するが、氏の学者として蓄積の一端をここでも知らされた思いだ。市井の思索者=評論家である小浜氏との違いを感じたところである。
中島氏によれば、狭義の意味での哲学のプロに要求される条件は、第一に「哲学に必要不可欠な述語に関する厳密さを習得していること」で、第二に「哲学的センス」であるとしている。一見素人を締め出しているようだが、氏も編集委員の一人である『事典・哲学の木』(講談社)で、「われわれの最も基本的な世界了解の枠組みを、どこまで取り払えるか」にかかわる「哲学的センス」について、この項目担当の中島氏は述べている。
『一方で、みずから自覚していなくとも、哲学的センスあふれる人が市井に潜んでいる。彼らはカントやヘーゲルを読む修業こそしなかったが、先の問い(=存在の問い)を大切に育んでおり、その世界の見方、世界への態度が哲学的なのだ。他方で、知的職業についている者のほとんどは一滴の哲学的センスももち合わせていない。学問や芸術を愛し解しながら、哲学的センスだけは決定的に欠いている人は多い。哲学研究者の中にも哲学的センスが枯渇してしまった者が少なくない。』
- 作者:納富 信留
- 発売日: 2005/08/08
- メディア: 新書
- 作者:中島 義道 小浜 逸郎
- 発売日: 2009/07/16
- メディア: 新書