「イデア」論を欠くプラトン哲学理解:レオ・シュトラウスの場合

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『ひらく❹』(エイアンドエフ)に、レオ・シュトラウス(Leo Strauss:1899〜1973)の特集があり、西洋古典学者の納富信留東京大学大学院教授が「古代哲学をどう読むか」と題して(副題は「レオ・シュトラウスプラトンと私」)寄稿している。教授は、「近代の合理主義が陥っている危機を打破するために、古代政治哲学の伝統に立ち返って批判するというシュトラウスの試みは、どれほど成功しているのか」について、「主にプラトンをめぐって考察」している。
 シュトラウスが、プラトン対話篇に登場するソクラテスは対話において知っているくせに何かを秘匿している(アイロニー)のであるとし、著者のプラトンの真の意図を「行間を読む」ことによって理解すべしとしているのは、間違いで、「私たちは書かれたものをまずはその通りに読み解くべきである」。
 プラトンの「男女平等、家族の撤廃、哲人政治」の議論を、シュトラウスは、「自然に反する」として退けているが、プラトンにあっては、欲望を野放しにする私的所有や家族すら廃止せよとしたのは、魂の輪廻転生を根本に、金銭の所有も血縁も一次的に有する関係であり、それこそ「自然」に反するのであり、一定の限界はあるにしても男女平等を主張したのであり、私有と血縁を撤廃すべしと考えたのである。
 シュトラウスプラトン哲学理解に欠けているのは、「イデア論」である。これは近現代哲学全般に共通するプラトン哲学解釈の失敗である。イデア論を無視すれば二つの不適切さを生み出す。納富教授によれば、

 まず、イデア自体が存在へと生成することの不可能性から、正しいポリス(理想ポリス)の不可能性へと議論を進めるシュトラウスは、すでにこの点で躓いている。「言論の中で」存在するという点は正しいとして、そこで「のみ存在する」という点は誤っている。今すぐに地上のどこかで実現できないということは、永久の時間のなかでけっして実現しないということを含意しない。そんなほとんど実現しないものを論じても仕方がないと考える近代的政治哲学は、イデアという永遠の相で見るプラトンの政治哲学とは異質である。
 もう一つは、イデア論を無視した「哲学」が「哲人政治」という理論で付け足しに過ぎない、正義実現の「手段」だと見なす点である。正義という問題そのものの地平がイデアにあり、それと関わる魂のあり方が哲学である以上、哲学は手段ではありえない。『パイドン』で明らかにされるように、イデアと関わる叡智のあり方が「死の練習」としての哲学である。シュトラウスは「哲学」という理念をきわめて平板な近代的理解で処理しているが、それは「魂」という観点の欠如に相即する。シュトラウスが「哲学」と説明する場面でのイデアの地平は完全に無視されているからである。(p.97)