吉本隆明さん

毎日新聞」に、吉本隆明氏へのインタビュー記事が掲載されている。梅田麻衣子記者のリアルな記述によれば、『吉本さんは四つんばいで現れた。糖尿病や前立腺肥大、足腰の衰えなどで、体が不自由な状態にある。日本の言論界を長年リードした「戦後最大の思想家」は、そのまま頭が床につくくらい丁寧なお辞儀をした。白内障の目はこちらをまっすぐ見つめていた』。
  http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110527dde012040005000c.html
 しかしアタマは、さすがに衰えていない。「技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」と語ったそうである。共感を覚える。
 吉本隆明さんの話を直接聞いたのは、それぞれいつのことかたしかな記憶はないが、4回ほど。1)神楽坂で「高村光太郎について」、2)池袋豊島振興会館で、黒色戦線主催「言語について」、3)杉並公会堂で、ブント(共産同)叛旗派主催「国家とはなにか」、4)幕張の高層ビルにて、「『試行』の取り組み」などの講演を聴いている。下をむいたままことばを反芻しながら問題を追い込んでいく、独特の語りは魅力的であった。
 その評論は社会科学というよりは詩であったのではないか、農本主義をどう扱うべきか、〈真理〉が党派性に支えられて流通することの危うさとはなにかなど、吉本思想をめぐっては、依然として課題が継続している。時期的に比較的現在に近い、わがHPの関連する記載を抄録して、あらためて考えたい。
◆『考える人』(新潮社)春号での、吉本隆明氏の聖書をめぐるインタビュー記事は、書物との出会いについて考えさせられた.研究の対象でもなく、教養のアイテムでもない、書物とのまさに出会いとしか呼べない体験が語られていた.
神道というもの、天皇制というものをずっと信じていました.その上で戦争をどこまでもやるべきと思っていました」吉本青年は、「終戦詔勅」のラジオ放送を聞いて、嗚咽をこらえ、海に出てあてもなく泳ぎまわり、しばらくの後、日本語(文語訳)とフランス語の聖書を購入、二つを対照しながら読み進めた.
「マルコ伝」から読みはじめるべきであるのを認めつつ、吉本氏がいちばん衝撃をうけたのは、「マタイ伝」であったという。ファリサイ派パリサイ派)が改宗者を求めて一人つくれば、「自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」と、イエスが述べた件について、
「僕はもうピンと来るところです.誰が地獄の子なのか。オレたち日本人は戦争をして悪かったと、天皇万歳でやってきて、しかしこれからは民主主義なんだと、いままでのことは全部間違っていたんだと、コロっと宗旨替えするけれど、結局のところ日本人は嘘ばっかりついてきただけじゃないかと、そういう風に読まざるを得ないわけです」と語っている.そして、
『衝撃を受けながら繰り返し読んでいると、イエス・キリストという人物が、千年、二千年にひとり、現れるか現れないかというぐらいの思想家だということを、聖書ははっきり示していると思いました.』
 わが聖書の「イエス」イメージ形成に、田川建三氏の新約聖書学と、この吉本隆明氏の思索が大きな糧になっていたことをあらためて知ることとなった.(2010年5/13記)            
◆詩人荒川洋司氏の『詩とことば』(岩波書店)を読んでみた。「ことばのために」シリーズの一巻であるが、評論というよりエッセイである。
 1970年代の評論活動の隆盛について述べた件に瞠目させられた。
『ここにあげた人たちはいろんな世界の人たちだが、当時の読者に区別はなかったのではないか。怒濤のように押し寄せる彼らの評論集を読む。読み耽る。それが青年の日常の一部を形成した。そのころの評論は個人の思考を、まるで詩のように突出させるものが多い。不親切なのだ。優しさのかけらもない。専門的な内容なのに、引用が少ない。読者には一文一文がかなりの負担になる。ほんとうならそれを読む前に、基礎的な知識が必要なのだ。なのに読まれた。』
 吉本隆明氏の「丸山眞男論」は評論ではない、詩であるとの卓見は当時すでにあった。70年代、評論全体が詩のようなものとして受容されていたかもしれないとの見解は、驚かされるが、肯ける。
 さらに、さまざまな壁の消失した現代こそ、かえって詩をとりまく困難さがある趣旨の指摘にも考えさせられた。
『いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。こんなとき、詩は何をするものなのだろうか。詩の根本が問われているのだ。だとしたら、ここからほんとうの詩の歴史がはじまるのかもしれない。』(2009年9/17記)

◆現代のエコロジー運動は、かつての農本主義と重なると述べたのは吉本隆明氏であったが、「5・15事件」の思想的指導者であった橘孝三郎の研究家、長山靖生氏は、「東京新聞」5/30紙上のインタビュー記事で、「社会情勢がどんどん、あの時代に近づいているという危機感で書き始めた」と語っていて、その近著『テロとユートピア五・一五事件橘孝三郎』(新潮選書)をさっそく購読。5・15事件は「バーチャル・リアリティの物語的革命運動だったといえるかもしれない」とし、さらに、
橘孝三郎らの行動原理が幕末の水戸学思想にあったことはよく知られている。だが彼のあり方は、そう単純ではなかった。孝三郎は第一高等学校で学んだインテリであり、かつ音楽や美術に親しみ、自ら土を耕す生活を実践していた。彼が指導した「兄弟村」は、武者小路実篤の「新しき村」と並び称された「理想の農場」だった。一九三〇年代は、二〇年代に一世を風靡したモダニズムヘの反動からか、世界的にも田園回帰がいわれ、無農薬運動や手作り運動が盛んになった。都市文化の蔭で切り捨てられ、衰弱してゆく地方の現場にあって、世界的なスケールでの思想を展望しながら、自分たちの理論を磨き、行動に移していった。』
 巻末の参考文献リストにも記載ある、橘孝三郎の「天皇論三部作」3巻(天皇論刊行会)を昔求めたことがある。出版にかかわり合った方がわざわざ当時浅草の拙宅(こちらは留守中だった)まで届けてくれた。その折5・15事件の中心的実行者の一人であった元海軍中尉三上卓氏から、「本は無事届けられたか」と認められた葉書を頂戴した。数日その葉書を探しているがいまのところ見つからない。(2009年6/13記)

◆仏文学者鹿島茂明治大学教授の『吉本隆明1968』(平凡社新書)は、同じ下層中産階級出身の出自をもつ著者が、吉本隆明氏の思想のどこにその偉大さがあるのかを解明した力作である。鹿島氏は、本年華甲を迎えるいわゆる団塊の世代に属し、1968年に神奈川県立湘南高校を卒業し東京大学に入学している。全共闘運動の時代である。時代の波に呑まれるようにして、〈反体制〉活動に関わることもあったが、違和感が抜けなかったようだ。そのとき出会った吉本隆明氏の著作『擬制の終焉』および『芸術抵抗と挫折』『自立の思想的拠点』などによって、高村光太郎に代表される前世代の人生とみずからを重ねて思想的に苦闘した吉本隆明(の世代)と、今度は鹿島茂氏がその時代的社会的位置を重ねて、違和感のよってきたる所以と、その思想の近代=戦後日本における意義を考察している。読書遍歴をほぼ同じくしているので、表現と比喩の巧みさもあり大いなる共感をもって読むことができた。あまりよい読後感はもてなかった鹿島氏の、かつての東京都の「学校群制度導入」に対する悪罵などを思いだして、氏の世の「平等志向」嫌いが吉本思想に支えられつつ醸成されていたことを知ることもできた。
 吉本隆明という思想家が団塊世代のある部分の人びとに支持されたのは、その「倫理的信頼感」にあったと、著者は「あとがき」で述べているが、これは、著者より若い世代の社会学宮台真司氏もかつて指摘しているところである。ソクラテス風には「汝自身を知れ」ということになろうが、吉本隆明の場合は、欧米に遅れて近代化を推進しなければならなかった近代およびその延長としての戦後日本社会の社会構造との対応の問題として、「汝自身を知れ」としているのであって、とくにその社会階層的出自が己に強いるいわば身体的現実を無視・捨象して、「ウルトラナショナリズム」やら「スターリニズム」やらのイデオロギーに跳躍してしまう欺瞞を痛打しているのである。「留学体験」も「転向」も「自立」も、この核心的な思考と認識にもとづいて考察され、それらの問題をめぐって吉本前世代の人物たちが俎上に乗せられている、ということだ。
 就中「世界共通性(芸術・文化の了解可能性)」と「孤絶性(後進国日本における了解不可能性)」との葛藤に苦悩した高村光太郎についての考察を追った第4〜6章が、この書の白眉で、昔神楽坂の会場で聴いた、吉本さんの高村光太郎についての講演を思いだしつつ読み進めた。(その折吉本隆明氏から、著書『高村光太郎』にサインを入れていただいたことは忘れられない体験となった。)
『畢竟するに、このときに感じた違和感が吉本隆明の文学的営為のすべての出発点になります。高村光太郎は、他の戦争協力文学者とは異なり、平和になったとたんに、コロリと転向して、民主主義万歳を叫ぶようなことはありませんでしたが、それでも、吉本は「負けた以上、今度は精神の武器で自分を強くして真善美の文化を作り上げよう」などと前向きなことを言える精神がこの詩人にあるという事実に愕然としたのです。』
 高村光太郎は、この葛藤を自然法的なピューリファイ(purify)のレフェランス(reference)として、智恵子を、そしてその発狂後は戦争を選ぶことによって〈克服〉していったというわけである。戦中戦後その道をとれなかった吉本青年は、位置的には近かった「四季」派に対しても、その「西欧的認識・西欧的文学方法」が「日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って」いる限り「あぶくにすぎない」として自戒を込めて批判したのである。鹿島氏は、ここを基点に吉本「大衆の原像論」が成立した過程を論証しているのである。(2009年6/5記)

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上2枚花菖蒲、下エンジェルトランペット(Angel's trumpet=木立朝鮮朝顔)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆