東北の演劇文化

 この5月は、フランスのジョルジュ・ラヴォーダン演出の『テンペスト』(東京世田谷パブリックシアター公演予定)の公演が、カンパニー来日中止によりなくなってしまった。愉しみにしていただけに残念である。3月は、ラッパ屋公演の『遠い金魚』(座・高円寺1)も、大震災直後にて、チケット購入済みでも観劇に行かなかった。
 8年前の5月にパブリックシアターと同じビルの1階にあるシアタートラムで観た、青森弘前劇場の舞台を思い起こす。地域性に執着することが、グローバルなところに繋がっていく、昨今の演劇をめぐる事情を、05年のHP記事を再録してあらためて考えてみたい。

◆昨晩は、青森県弘前で高校の倫理を教えながら劇作・演出活動を続けている長谷川孝司氏の、作・演出『あの川に遠い窓』を、世田谷三軒茶屋のシアタートラムで観劇。いちばん後ろの席で、左耳が難聴とあって、大切な台詞の一部を時折聞き逃したが、はじめは笑わされつつ最後まで緊張感のある舞台であった。村田雄浩演じるやくざと、山田辰夫演じる倫理を教えるそのやくざの息子の担任高校教師の二人だけで、劇が展開する。家を出て帰っていない息子のことで、学級担任が家庭訪問に来たという設定である。二人だけの会話で進行する〈静かな演劇〉は、しかし大団円で、二人の間の真実をあからさまにし、情念の噴出を解き放つ。教師は、かつて客として寄っていた「ティンカーベル」という店で、意外にもピアノを弾いていたやくざの、妻を秘かに愛してしまっていたのだ。時折妻が、忍んで彼の部屋を訪れていたらしい。教師はやくざの暴力が怖くて、女を奪えなかったのだ。女はすでに死んでいた。家出していた息子をそこまで追いやったのは、やくざの父に告げ口されたくない教師なのだった。  
 やくざの男は、いないはずのふる里の妻に向かってひとり電話をかける毎日であった。教師は、教育の仕事の根拠を喪失していた。哀しく残酷な幕切れであった。
 長谷川氏は、「私は、俳優の口から発せられる言葉には二種類しかないと思っている。すなわち、日常的会話ともう一つは詩である」(『長谷川孝司戯曲集』太田出版・作者あとがき)と書いているように、日常的な台詞のなかに詩的な表現がときには唐突に挿入されていて、独特の雰囲気を形成している。
新(教師) ポケベルとか電話じゃないと、ホントのこと言えなくなってんです。
野坂(やくざ) 向き合うのが怖い。
新 ええ、本心なんか誰も話していない。
野坂 はい。
新 モノを作ってる自信がないからです。
野坂 あ、さっきの……
新 土の中に芋ができるってことです、クヌギにカブト虫が卵を産むってことです、雲は流れるってことです。
  
 とても素敵なテンポとリズムの台詞である。
 この教師の郷里の祖父は映画館の興行師であった。金をかけてない映画館は、芝居小屋としても使われたが、舞台の奈落には水が1メートルも溜まっていたという。あるとき火事になり、観客席は完全に水没してしまう。
新 そしたらね、観客席と舞台だけが残ってんですよ。しかも観客席は完全に水没しているんです、消火に使った水で。きのうまでスクリーンだった向こうには夏の初めの田んぼが広がって、隣町の火の見やぐらが見えてました。午後になって水が澄んでから、従兄弟と二人でそこに金魚放したんですよ、出目金と普通の金魚。
 これは象徴的なイメージである。教師の人間的崩壊を暗示した台詞だろう。果たして「出目金と普通の金魚」は、崩れた彼のこころと身体のどこに泳がすことができるのだろうか? 
 弘前劇場を拠点とする氏の世界は、平田オリザ氏が指摘するように、「地域が抱えるその混迷を、混迷のままに描ききり、それを舞台に大胆にのせる」もので、現代の大都会を場として選ぶと、古典的な「本来性の神話」にからめとられた物語りに終わっている印象である。コンクリートの堤に囲まれた川こそ自然として生活してきた都会人の、別な物語りもおそらく可能なのではあるまいか。なお、北野武作品を模倣したらしいこの作品に限らず、長谷川作品は映画(フランス映画)から多くの着想を盗んでいるようだ。いわば「本歌取り」の姿勢である。さらに、この作品はロンドンで英国人俳優によるドラマリーディングが行われており、また他の作品も英訳されている。地域性をとことん掘りすすめることを通して、この作家の表現が「世界性」を獲得しつつあることに、敬意を表したい。(03年5/11記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のクレマチス(テッセン=鉄線)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆