ストーカー教師の悲哀


 
f:id:simmel20:20210416133246j:plain(あかね=二階堂ふみ
 一昨日6/20(木)は、東京世田谷区のシアタートラムで、マチネー公演、岩松了作・演出の『不道徳教室』を観劇。黒川芽以が舞台でどんな演技をするのか、関心があってチケットを購入した次第。ヒントを与えている原作は、川端康成の『みずうみ』、恥ずかしながら未読である。現代の日本を舞台にして、現代国語担当の高校教師山城(大森南朋)と教え子のJK須佐あかね(二階堂ふみ)との禁断の恋の行方を描いている。山城を慕うJK元木久子(趣里)と仲間の有田弥生(大西礼芳)、客として会うリラクゼーション店マッサージ嬢リカコ(黒川芽以)らも、二人の関係に絡んで、面白い展開であった。高校の教頭(岩松了)は、俗世間を代表する人物という役回りであるが、権力を振りかざすというよりは、憎めない俗物といったキャラ。むろんこういう人物こそ、力とカネの支配する現実の世界を支えてはいるのである。
 http://www.youtube.com/watch?v=MXy2tV2p3BI
 なぜに山城は慕われるのであろうか、そこのところがはっきりしない。マクロな現代の政治・経済ほかを論じさせるとポカの多い内田樹氏は、みずからをエマニュエル・レヴィナスの「弟子」としている通り、その著『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)での「師弟論」「他者論」「エロス論」は、さすがに知的刺激に富み感動的である。そこに、
……師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。……(同書p.18)
 しかし山城は、そんな「物語」の雰囲気を醸し出していない。
 山城は、ストーカーである。帰宅するあかねの尾行をつづけ、気づいていてついにある日振り返ったあかねを抱き寄せてしまう。マッサージ嬢リカコの撮った証拠の写真が教頭に渡り、山城とあかねは追いつめられる。あかねを尾行していた山城は、彼に好意をもつリカコに尾行されていたのだ。まるで荘子の連環のようである。
 山城は、作文課題で「未来の夢について」を書かせるが、あかねだけは居残り指導させても書けない。山城自身の夢=欲望を顕わさずして、あかねが自分の夢=欲望を表現できるはずがない。しかし山城はじつは自分の夢=欲望について測りかねている。ツンデレのあかねはそのことを見抜いているのだろう。JKもすでにして怖いひとりの女なのである。
 この舞台では、不可逆的な時間と円環的な時間が交錯して、最後は二人の出会いのときと同じように、山城とリカコが花屋の店先で互いの顔と顔を向き合わせるのである。
……例えば私が食物を摂取するのは、「私ならざるもの」の持つエネルギーを私自身のエネルギーに転化することであるが、そのように「私ならざるもの」に依存していることは、少しも私の自己同一性を揺るがさない。そうではなくて、「私ならざるもの」を絶えずおのれのうちに繰り込み続ける運動性こそが私の本質をなしているのである。……(同書p.162)
 終幕での山城にとっての「私ならざるもの」とは、ガラス窓の向こうのリカコの「顔」であり、リカコにとっての「私ならざるもの」とは、店先に立って中を覗く山城の「顔」ということになるのだろう。
 それにしても、山城を慕うJK元木久子(チャコ)を演じた趣里は可愛い! 黒川芽以も実物は意外と色っぽいところがあって魅せられた。なお当日は、人気の演出家=岩松了と人気俳優=大森南朋(なお)の舞台とあってか、客席両側に少なからぬ立ち見客(ほとんど女性客)が出たほどの盛況であった。

 

レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、ビヨウヤナギ(美容柳)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆