学問の現状

東京新聞」10/8夕刊紙上に、ノーベル化学賞受賞に浮かれてばかりもいられない、日本の自然科学研究の状況を記述した記事が載った.1)自然科学分野の08年度研究費比較では、日本の17兆円は米国46兆円に及ばず、中国が毎年1〜3兆円ほど増加させ12兆円に迫っていること、2)大学の独立行政法人化により、予算を引っ張れる研究や、短期間で成果が見える研究が求められる風潮が強まったこと、3)若手研究者のハングリー精神や海外に出ようとする冒険心がないこと、など複数の学者の指摘を紹介している.門外漢にはまったくわからないことであるが、知的渇仰の衰滅はあるのだろう。
 人文・社会科学的教養および学問の衰退についても論じられている。昨年の10月わがHPで記載したものを再録しておきたい.

 竹内洋関西大学教授の『学問の下流』(中央公論新社)は、書評あり読書日記ありの雑文集ともいえるエッセイ集であるが、思考と認識において示唆するところは、甚だ多い。日本近現代の学校文化・学歴史および知識人文化史の研究家である竹内氏だけに、これからの教育について考察するうえでも大いに裨益されるだろう。戦後人文・社会科学の「左翼」的偏向の歴史的背景を探り、その成果を公平に評価しつつ知的活動のバランスを恢復しようとする、複眼的スタンスをとっている。
 戦前旧制高校に典型的にみられた教養主義への評価と憧憬が基底にある。「難解な用語と論理を操るのが得意という偏差値競争のような教養主義」ではない、人格主義や社会改良主義と連結した教養主義が、近代日本のエリート学生文化の真髄であるとしている。
『……旧制高校教養主義は単に難しい本を読んで知識を得たというだけではない。そうした読書による人生への懐疑であり、人格形成だったということをわすれてはならない。教養とは教養なき人を蔑んだり、教養をひけらかしたりする教養俗物になることではない。さらに大きな未知の世界があることを知ることで、いまとここの現実世界について懐疑し、自省し、現実世界を超越する理想主義につながるものである。教養主義の学生文化は「自省」と「超越」(井上俊)の契機をもっていたことが大事なのである。』(同書)
 第1章の「学問の下流化」では、亡き丸山眞男が述べた「芸能人の文化人への昇格と、他方での文化人の芸能人化」が1970年以後ますます拡大しているとし、
『いまの人文社会科学系学問の危機は大衆社会のなかでの学問のポピュリズム化、つまり学問の下流化と、こうした大衆的/ジャーナリズム的正統化の時代のなかで、ういてしまう学問のオタク化である。
 人文社会科学系学問のオタク化とは専門学会内部、それも一部学会員だけの内輪消費のためだけの研究という自閉化のことをいう。かくて認識の明晰化の手段であったはずの方法や技術の洗練への志向が、知的大衆や他の学会からの侵犯を許さないための「自己防衛」や学会内部の「知の支配」の手段のようになってしまう危機も生じている。』(同書)
「学会を中心とした人文社会科学知が優秀でアンビシャスな知的青年の冒険心と興奮をとらえない事態」という危機を徹底的に認識することなしに、「人文社会科学の再構築はありえない」と述べている。(09年10/3記) 

⦅写真(解像度20%)は、千葉県九十九里で咲いているイヌサフラン。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆