日本特殊論の季節


 比較社会論と比較文化論の学問領域としての区別に関しては、研究者でもないので適当にしておく。個人的印象では、夏は「そもそも日本人は……」などと、殊更その特殊性を論う議論に出会うことが少なくない季節ではないか。社会・文化の比較は簡単ではない。考察と吟味にあたっての、あるべき方法および態度について整理しておきたい。
 いささか古い研究であるが、杉本良夫(ラトローブ大学名誉教授)&ロス・マオア(Ross Mouer:モナシュ大学)共著『日本人は「日本的」か』(東洋経済新報社1982年刊)のⅣ「日本人論の方法論的問題点」の第8・9章に、依然として学ぶことができる問題提起がある。
【比較による叙述描写】
○サンプルと母集団:統計学の用語でいえば、標本と母集団との関係にかかわる問題。例えば、「終身雇用」とか「企業別組合」とか、日本的労働慣習として描写されている傾向は、大企業エリート・サラリーマンである人たちについての観察が中心になっていたりする場合。これでは議論に飛躍が生まれる。
○比較基準の明示:「日本的」なものが何か、ということがはっきり定義された場合でも、それが日本にだけあって他の社会には全く不在だというのか、それとも他の社会と比べて、日本ではより高いパーセントで存在しているというのか、比較の基準が明示される必要がある。
○比較対象となる社会の明示:日本社会をどの社会と比べるかによって、「日本的」なものの定義が変わるかもしれない。比較の対象となる社会がどこか、明示する必要がある。
○比較変数の意味:比較変数のもっている各社会での意味の相違を考慮しなければならないということ。例えば、「労働時間」という概念をめぐって、その内実が異なっている。統計の多国間比較においても、アメリカでは二つの職を持っている人が多くいるが、その場合、一人の合計労働時間は計算されないなど単純な比較はできない。
【因果関係の比較分析】
○相関関係の検証:相関関係があれば、因果関係がある可能性が強く、相関関係がなければ、因果関係を主張することはむずかしい。従来の日本人論は、実証的検証を経ない因果論ではなかったか。
○説明理論の重要性:因果関係を主張するためには、二つの事象間に相関関係が成り立ち、しかもその間を連結する説明理論のあることが必要最低条件である。
○主観的意味や動機の分析:分析の対象となっている個人の心の奥底にはいっていくことが、分析者の義務である。だから、いろいろな人びとの実感や直感を知ることは、社会研究にとって必須の作業。

 比較文学者・作家の小谷野敦氏の『日本文化論のインチキ』(幻冬社2010年刊)も示唆に富む比較文化論の著作である。次の指摘は、杉本良夫&ロス・マオアの前掲書と呼応しよう。

「日本文化論」の多くが怪しいのは、結局それらが扱っている題材(小説や実録)が、こうした、前近代なら公家、武家、豪商、近代ならエリートたちの生活に取材して構成されていることがほとんどだからである。(p.49 )

 しかしかつて一読して腰を抜かすほど驚いたのは、「近代的自我」についての見解である。近代文学史のそれまでのいわば自明の認識を破砕されてしまった知的体験であった。「目から鱗」とはこういうことか。

 そう考えると「近代的自我」などという言葉は、例によってヘーゲル式の抽象化で、色々なものをごちゃ混ぜにして、いかにも深遠に見えるようにした言葉であって、実際には意味不明なのである。夏目漱石が、近代知識人の孤独に苦悩した、というが、別に上田秋成曲亭馬琴だって、知識人の孤独に苦悩したはずであり、単に漱石は、それを表現する様式を、西洋文学から借りてきたというに過ぎないのである。だから「近代的自我」というものが生まれたのではなく、自我の内面を表現する様式ができた、と言ったほうが、事実としては正しいし、要するに日本近代文学の用語でしかないのである。(pp.87〜88 )