『ナショナリズムの由来』を読む

京成杯AH」の万馬券的中などで、「スプリンターズS」不的中も大した財政的損傷とはならず、津田沼丸善にて、欲しかった大澤真幸京都大学教授の大著『ナショナリズムの由来』(講談社・税込み5000円)を購入.ぼちぼち読みはじめる.撫で回し傍線を引いたりしつつ読み進める読書法なので、図書館での書籍借り入れにはまったくむいていないのである。
 著者の大澤教授は、かつて新国立劇場で、鈴木忠志脚色・演出の舞台を観劇したとき、開演前のロビーでわが隣の席に美形の女性と坐ったことがあり、(それ以前に講演も拝聴していたが)やたら咳払いをしていた氏に、以来親しみを感じていた.むろん、ナショナリズム理論に関して無関係のことではある.
「場所は、そうした隔離された空間(建築物のような物質的な具体物:例・新国立劇場)を媒介にして現象するような抽象的な審級(出た!)である」と、はじめの2頁目から大澤社会学お馴染みの用語が飛び出してくる.読み慣れた読者でないと、付いて行くのに戸惑うかもしれない.
 「予告編」で、主題が明らかにされる.19世紀〜20世紀前半のナショナリズムが、「多様で散乱せる身体(小共同体)」の集合(ハート&ネグリ的にはマルチチュード)を、国民というより大きな単位へ統合して行く運動であったのに対し、現代(20世紀末期以降)のナショナリズムを規定するベクトルは異なり、逆を向いているとしている.

『それは、国民を、共同性のより小さな単位、「民族」という単位へと分解していく運動である.つまり、それは、身体を市民の抽象性から離脱させて、民族の直接的で有機的なつながりの中に具体化しようとするのだ。古典的なナショナリズムが国民化を目標とするものだとすれば、現代のナショナリズムは民族化を指向している.そうであるとすると、深い疑問に陥らざるをえない。〈帝国〉という地球大の—少なくとも国民–国家の規模をはるかに凌駕する—主権が成立しつつあるとき、民族の小単位への執着がかえって強化されていくのはなぜなのだろうか』(同書25P.)

 その4頁後に、レーニンが亡命先で、あるニュースをきいてショックを受けたエピソードが紹介されている.もはや大澤氏の問題関心が判然とする.いまこそ(当然ながら中国の軍事的野心に警戒し、備えながらも)冷静に考察を進めなければならないだろう.

レーニンを驚かせたのは、第二インターナショナルに参加している各国の社会主義者たちが戦争支持にまわったというニュースである。第二インターとは、ヨーロッパ諸国の社会主義政党労働組合の連合組織である.第二インターに参加している各国の社会主義者たちは、それぞれ自国政府の戦争への加担を積極的に承認したのだ.』(同書29P.)

ナショナリズムの由来

ナショナリズムの由来

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の薮蘭。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆