文芸同人誌の漱石特集

 


 文芸同人誌『群系』第25号が、「夏目漱石特集」をしている。発行元の群系の会には、職業・性別・年齢など多彩な人材が集っているようで、各作品論について猛暑の折未読であるが、頁を捲っているだけでいろいろな音色の音響が聞こえてきそうである.近代文学の研究者にとっては、おそらく貴重な論考が見つかりそうだが、実作(創作)の立場では、じつは(他人の)作品論はあまり役に立ちそうにもない(超主体的見解).今回もこの暑さが去ってもつまみ食いで終わってしまいそうな、失礼な予感がする.
 同人誌の傾向として同人誌的小説というものが多いらしいが、詳らかにしない.昔文芸評論家の江藤淳が「朝日新聞」の文芸時評で、同人誌の作品を採りあげたことがあった.わがHPの記述を再録しておこう.

「たまたま私は同人雑誌『花』の正月号に発表された葉山修平氏の「黒い虹」という中篇小説を読んで、ここにも「天皇陛下」が投影しているのにおどろいた。これは戦争中の田舎中学生の日記の体裁に終始している風変りな小説で、「靖国の鬼」という「死」の象徴のなかにのみエロスを感じている萠芽的な段階のエロティシズムを描いた作品である。もしこの問題を逆の角度から見直せば、暗示されているものの意味は大きいであろう。それは、おそらく有機的に統一された過去への渇望である。現実の「過去」がそんなものではなかったことは誰もが知っている。しかし人は望むように夢見るのであり、これらの作家は人々の胸に眠る願望を、各々のかたちで鋭敏に捕らえはじめているのかも知れない。」(江藤淳文芸時評』新潮社)
 これは「朝日新聞」の1960年12月の「文芸時評」の最後の箇所である。江藤淳が、1)エロスの衝動が美化された過去=国家にむかう可能性に注意を促していたこと、2)大江健三郎の「セヴンティーン」と、三島由紀夫の「憂国」と並んで、(当時)全く無名の葉山修平氏の、それも一同人雑誌に発表された作品を、対等に取り扱っていること、この二点を、今後江藤淳という文学者を語るとき忘れないようにしたいものである。(2001年8/9記)

『群系』誌に、海藤慶次さんの「私の落語遍歴」なるエッセイが掲載されているが、「漱石特集」とはまったく交叉していない。物足りないところではある.『また、寄席は、子供の頃から真の「ドメスチックハッピネス」を知らず、孤独と不安に悩まざるを得なかった漱石にとって、心安まる楽しいひとときをもたらしてくれる別天地であった.』とする水川隆夫氏の『漱石と落語』(平凡社ライブラリー)によれば、漱石は、子規との交友をきっかけとして俳句作りに身を入れるようになったが、その俳句には多く「諧謔味・滑稽味」があり、そういう趣味については、「小林一茶の影響を指摘する人もあるが、むしろ、幼少時からの寄席通いによって、滑稽や洒脱を好む江戸っ子気質が強化されたことによるものであろう」としている。「疝気持臀(しり)安からぬ寒哉」ほかの落語の「疝気の虫」に通じる句や、「永き日や欠伸(あくび)うつして別れ行く」という落語「欠伸指南」を連想させる句もある.たまたま「疝気の虫」は東京池袋シアターグリーンで、「欠伸指南」は東京新宿紀伊国屋ホールで、いずれも立川志らくの高座を聴いたばかりである.
「近代口語文体の確立や近代日本文学の創造に対する落語の貢献は、従来考えられてきたよりも、さらに大きいものがあったといわなければならない.」(同書) 

漱石と落語 (平凡社ライブラリー)

漱石と落語 (平凡社ライブラリー)