趣味としての文学

 人格陶冶の修養としての教養に対して、これは過去のもので、職業労働・家庭(私的生活)・公共的義務の3領域を統合して自分らしさをつくっていく能力および過程こそ、現代の教養であるとした、清水真木明治大学教授とは相違して、原宏之氏はその近著『世直し教養論』(ちくま新書)で、修養=教養形成であるとし、その主体としての市民による近代デモクラシーの実現に期待を寄せる.
 あるネットのニュース・サイトで、「文学・批評」に関する記事の分類が、「ライフスタイル」カテゴリー中の「芸術と文化」に分類され、このサブカテゴリーと同位に「自動車」、「飲食」、「健康、「旅行」などと並べられていることに東浩紀氏も「ショックを受けたに違いない」として、東氏の文章を引用している.
「『現代社会において、文学や批評は、新車のデザインや新しいダイエット法や年末年始の海外旅行と同じように、生活を彩る趣味の話題のひとつにすぎない、という残酷な現実です』(『文学界』2009年2月号所収「娯楽性について」)
 これは「現実」ではなくて、ひとつの見解であり認識、そしてあえていえば言論人としての立場すなわちイデオロギー(特定の理念)である。この現実を乗り越えるのがまさに人文的思考の役割なのではなかろうか.」
 困ったことには違いなかろうが、いつの時代にあっても「文学や批評」が、多くの層に真に受け入れられていたかどうかも考えたほうがよいだろう.「娯楽」的側面や「スキャンダル」的側面で興味を喚起していたところもあったのではないか。まともな「読み手」と「書き手」が少数でも存在する限り、絶望するには早いだろう.
 かつて、ジョルジョ・アガンベンの論考についてHPで記述したことがある.考察の整理(いよいよの混乱?)のために再録しておきたい.

ジョルジョ・アガンベンが1970年に上梓した『中味のない人間』(岡田温司・岡部宗吉・多賀健太郎訳、人文書院2002年刊)は、その議論の論理構造に慣れるのに至難であり、かつ浩瀚な古典的教養を要求する著作で、完読していない。しかし第三章の「趣味人と分裂した弁証法」は、行きつ戻りつしながら面白く読めた。「良い趣味がそれとは正反対のものに魅かれるという、この説明しがたい傾向は、近代人にはきわめてありふれたものになっている」として、良い趣味が悪趣味に倒錯する心的メカニズムを論じている。どこまで、この倒錯を〈必然性〉と解明しきれているかについては保留しても、なかなか卓抜な指摘である。文学愛好家が集うサイトのBBSなどに、時々どうでもよいような作品を熱く語り合って(カキコしあって?)いたりするのを散見するが、アガンベンを読むと合点が行くのである。

「ある限界を越えた知性が、愚かさを必要とするようにみえるのと同様に、良い趣味は、ある洗練度いったんを越えてしまうと、もはや悪趣味なしですますことができなくなるといえるだろう。暇つぶしの芸術や文学の存在は、今日、もっぱら大衆社会に関係づけられており、われわれはこの社会を、19世紀後半におけるその最初の勃興の証言者だったインテリ層の心的条件に照らして思い描くのが常である。だが、このときわれわれがすっかり忘れてしまっているのは、セヴィニェ夫人がラ・カルプルネードの小説のパラドキシカルな魅惑を記述していたころの草創期にあって、この大衆社会が、あくまで貴族のあいだの現象であって、けっして民衆における現象ではなかったということだ。
 (略)とはいえ、さほど目を凝らさずとも、いまや暇つぶしの文学が、元来の姿に戻りつつあることはたやすく見てとれる。すなわち、この現象は、中間層や下層よりも以前に上流層の文化を巻きこんでいるのである。ほとんどキッチュや大衆娯楽小説だけに没頭している多くのインテリたちのなかに、セヴィニェ夫人のように、この自分の弱点のために首をくくろうとする心づもりのある人のいないことが、われわれの名誉にならないことはいうまでもない。」

 ラ・カルプルネードの小説とは、17世紀の「完璧な趣味人たる女性」セヴィニェ夫人が「少女のように」はまってしまった当時の流行小説で、「感情の美、情念の激しさ、事件のスケールの大きさ、おそるべき剣豪たちの奇蹟的な成功」が読者を捕らえて放さぬ魅力だったらしい。夫人は、他の本物で慰められないのであれば、「自分の弱点を認めて縊死していたことでしょう」と書簡に認めている。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上ベゴニア(Begonia)のチョコレートガール、下コリウス(Coleus=金襴紫蘇)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆