蜷川演劇で水しぶきを浴びる


『血の婚礼』の観劇記で、「舞台全面にほとんど止むことなく降り注ぐ雨は、今回は3列目(C列)の席で気にならなかったが」と書いておいたが、では「水しぶきを浴びた」舞台は何だったかと、記憶をたぐり寄せた。2005年5月の「メディア』であった。HP記載の観劇記を再録したい。 
(パンフレットの表紙絵は、裏表紙も含めて会田誠作『美しい旗(戦争画RETURNS・1995年)』。)
◆5/27(金)は、蜷川幸雄演出のエウリピデス原作・山形治江翻訳『メディア』を観劇した。メディアを大竹しのぶ、イアソンを生瀬勝久クレオンを吉田鋼太郎、乳母を松下砂稚子、守役を菅野菜保之、報告者を横田栄司が演じ、エウリピデス劇にふさわしく、赤い衣をまとい乳飲み子を抱いた女性ばかりのコロスが感情のうねりを盛り上げた。舞台は、イオルコスの城門前で、一面沼で蓮の花々が人間の絶望と悲哀を嘲笑するように、妖しく美しく咲いている。最近蜷川演出はシンプルで、仕掛けも抑制されてきたときいていたが、これぞ本来のニナガワ劇の舞台。脚役の二人の人間が動かす白馬や、最後にメディアが殺戮した子らの亡骸とともに乗って登場する天駆ける竜車など、歌舞伎の仕掛けそのもので、かつての『マクベス』に観られた美しい猥雑さは衰えていなかった。
 運良く(?)XB列(XA列は今回はない)という最前列の席だったので、湛えられた水の飛沫がしばしば飛び散ってきた。劇場で用意してくれたビニールの水よけで身を覆っての観劇、少し汗が出てくるほどだった。やはり水が飛び散った、蜷川幸雄演出の唐十郎作『下谷万年町物語』を思い起こした。
 メディアを演じた大竹しのぶさんは、女性のもっている愛らしさ、残酷さ、駆け引きの巧さ、激しさ、母性的なるものその他いっさいのものを含めたすべてを、瞬時の変身を重ねながら見事に演じ切った。素晴らしい!としか称える言葉がない。まさに大竹しのぶは、「世界レベルの女優」(蜷川幸雄氏)といわなければならないだろう。生瀬勝久のイアソンとの間の応酬は、感情表現に流されず、対話性をはらんだ緊張感があり、歌舞伎とは明らかに違う芝居となっていた。蜷川氏は「水にはいろいろな意味を託していますが、説明するとおもしろくないので、省略」(パンフレット)としているが、時折飛沫をあげる水は、西洋哲学史上最初の哲学者タレスの「水が万物の始源(アルケー)」の言葉を思い起こさせ、すべてを浄化する水というイメージもあれば、水面下にそれぞれの情念を隠しているという意味あいもあるだろう。
 最後のコロスの長の台詞が、こころに深く残った観劇だった。
「もろもろのことを司るのは、/オリュンポスの峰にましますゼウスの神、/そして何事にも神々は、我々には思いもよらぬ結末をおつけになるもの。/成ると思われたことが成らず/まさかと思うようなことを成らしめるのが神の遣り口、/この度のこともまた、そのとおりの結末とはなった。」(丹下和彦訳『岩波ギリシア悲劇全集3』)
 今回の脚本の翻訳者である山形治江日本大学教授の「台詞の裏側・神話の世界」(パンフレット)は、ギリシア悲劇の専門家の実に面白い解説である。夫イアソンをしてイオルコスの王位につけさせることになった、コルキスの呪力をもった「黄金羊毛」の入手も、魔女を叔母にもつ血筋のメディアの使った薬草のおかげであり、裏切った夫が婚約したコリントスの王女とその父を殺害したのも彼女の薬草の仕掛け、そしてあらかじめ逃亡先として頼んだアテナイの王アイゲウスも、子宝を授けてくれるとした彼女の薬草術あればこそであった。山形さんは、パンフレットで次のように書いている。
『やはり手に職があると、人生、なにかと強いのである。』(2005年5/29記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上多年草ロベリア(Lobelia cardinalis:紅花沢桔梗)2、下八重のムクゲ木槿)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆