平幹二朗追悼




 今年の1/14(木)東京グローブ座で観劇した『王女メディア』が、個人的に観られたこの名優の最後の舞台となってしまった。生身の平幹二朗さんは、昔東京江東区のベニサン・ピットの狭いロビーでお見かけしたことがある。ご冥福を祈りたい。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20160116/1452927118(「平幹二朗の『王女メディア』観劇:2016年1/16 」)



 なお演出も兼ねた仕事では、2004年の『楽劇・オイディプス王』を観ている。かつてHP記載の観劇記を載せておこう。
◆7月3日(土)葛飾区のかめありリリオホールにて、幹の会の11月紀伊國屋サザンシアター公演までつづく全国公演の初演『オイディプス王』(平幹二郎演出・主演)を観劇した。訳は福田恆存訳に依っている。
 舞台はニューヨークのハーレムの行き止まりの三叉路つまり、オイディプスがかのライオス王を殺害してしまった、運命=テュケーの場所を暗示する空間である。ここに何やら闇を抱えた旅芸人たちが辿り着き、地元の黒人ゴスペラーをもコロスに加えて、ソフォクレス作のギリシア悲劇オイディプス王』を演じるという設定である。舞台の上で役者たちが演じるところを見せるという設定は、ピランデルロ以来とくに目新しい劇づくりではない。また黒人たちが人形であり、最後のエクソドスで王の娘たちも人形であることもすでにどこかで見知った演出である。ここで斬新なのは、イオカステの人物像である。元宝塚の鳳蘭が演じている。イオカステのイメージを、ギリシア古典学者の川島重成国際基督教大学名誉教授の解釈に基づいて、積極的に造型しているところが今回の注目すべき演出である。美しく外見的にも逞しく見える鳳蘭はいちおうその役ははたしたといえるだろう。
 しからば川島氏のイオカステ解釈とはどのようなものであろうか。旧版『「オイディプス王」を読む』(講談社学術文庫)を大幅に改訂した『アポロンの光と闇のもとに』(三陸書房)に従おう。
 イオカステは、オイディプスコリントスでいまの父親は実の父親ではないことを聞いたこと、そしてそのことを確かめようとして伺ったアポロンの神託では、それへの応答ではなく、父を殺し母と床を共にするという内容だったことを告げたとき、すでに、ことの子細を知ってしまったのだという。予言者テイレシアスの予言など恐れることはないとの忠告から転じて、
 さればもうこれからは、わたくしは神の告げる予言のために、くよくよと思いわずらうようなことは、けっしていたさぬでございましょう。(藤沢令夫訳)
 イオカステは、悲惨な現実をしかと見据えて、そのことをオイディプスにわからせることなく生き抜こうとしたのである。しかし、これは神々の正義(ディケー)の秩序=「永遠(とわ)に高敷く法(おきて)」からみれば、神託蔑視でありヒュブリス(驕慢)である。第2スタシモン(コロスの合唱)で、「おごりたかぶる輩のありて、/女神ディケーを畏(かし)まず、/神の御座(みくら)を懼(おそ)れずば、/悪しき運命(さだめ)にとらえられ/凶(まが)しき不遜のむくいを受けよ―」と歌われる通りにイオカステは破滅するほかなくなるのである。
 そのような神的秩序が存在するとは、この悲劇全体の主張であるのみならず、これはまた第2スタシモンで高唱された信念であり、祈りにほかならない。もしこの判断が正しければ、第2スタシモンに繰り拡げられた思想は、この劇の登場人物であるコロスのものであるとともに、『オイディプス王』の劇構造そのものによって表現された詩人ソポクレスの思想を正しく反映したものと言えるだろう。
 ここでテュケーといわれるものは、偶然の出来事であり運命であるが、しかし人の行動を外側から導く力であるとともにその人の内側のデモーニッシュな領域からの力をも意味するダイモーンとの接点の軌跡が、この悲劇の展開そのものであるとの指摘には興奮させられた。(なお座席は、前列7列目の3番であった。写真は、同公演パンフレットから。7/4記)
 
 1986(昭和61)年5月、築地本願寺境内特設会場で、蜷川幸雄演出の日没時開演の野外公演『オイディプス王』も刺激的なイベントであった。平幹二朗オイディプスギリシアギリシャ)の女優A・パパサナシウがイオカステを演じていた。


 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20160513/1463134332(「追悼・蜷川幸雄:2016年5/13 」)