たまに見かけていたけれど、ちょっと資料として必要になったので今日の古書展で購入した佐々木信綱『おもひ草』明治36年。
— 山中剛史 (@ymnktakeshi) 2022年12月2日
これ、外装はなんだろう…? pic.twitter.com/Xlg5XWQvPI
藤蔭道子編集・発行の月刊『思い草』4号(11/30発行)、野上志乃の掌篇「秋」は、「自分とは真逆の」(真逆の、は感心しないが、それは措いて)何事にも積極的で行動的だった友人が、あるとき電話をかけてきて、デイサービスに行くようになり、生活面でも家族からあれこれ注意され認知症が進んでいるとのこと、自分にも少なからず思いあたることがあり、心が沈んでくる。
おだやかに過ごしたかった人生の終盤に、こんな摩訶不思議な世界が待っていたとは……。
窓枠の向こうで、すっかり芥子色になった木蓮の葉が、風に揺れる。
もうすぐ自分の冬がやって来る。(p.6)
最後「自分の冬」の「自分の」は余計だろう。ただ「冬がやって来る」で止めればよかった。迎える季節の冬は、みずからの人生における玄冬なのだ、との説明がしたいのだろうが、小説は描写だけ書けばよいのだ。「ああそうですか」で読者はページを閉じてしまう。
最近のこと、わが友人のI氏からメールが届き、夫人が認知症になり、食事の準備など家事をしているとのこと。調理をしているとき誤って包丁で小指を切ってしまい、病院で何針も縫ったということだった。I氏本人も心臓弁膜症の大きな手術をしたばかりであり、この夫婦の冬を思っていたところであった。