「機械じかけの神=デウス・エクス・マキーナ」とギリシア悲劇

 Hulu配信で『全国高校生クイズ選手権』、準決勝戦・(対灘高)決勝戦のところだけ視聴したが、古代演劇の「機械仕掛けの神」は元のギリシア語では何と言うか?の問題に、早押しで西頭クンか、「デウス・エクス・マキーナ(マキナ)」と即答。ここだけ驚いた。チームメンバーへの注文としていまはともかく、いずれギリシア悲劇エウリピデス)の作品を読み(ソフォクレスの作品は読んでいるかも)、機会があればその良質の舞台を観てほしいと思ったことである。

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笠松泰洋氏が、作曲・台本構成・指揮を担当した『ギリシャ劇「エレクトラ3部作〈アトレウス家の崩壊と再生〉』も今年が最終第3話、7月14日(木)銀座王子ホールにて観劇した。台本の元の物語は、第1話が『アウリスのイーピゲネイア』、第2話が、『エレクトラー』、そして今回の第3話が、『オレステース』と『タウリケーのイピゲネイアー』(いずれも岩波版『ギリシア悲劇全集』のエウリーピデースの巻3、4、5の題名からで、この台本とはカタカナ表記が異なる)である。
 ダンサーによる身体表現が、朗読・語り(今回は、篠井英介)および歌唱と火花を散らす舞台の展開は3回とも共通である。第1回がアンドロギュヌス的ダンサー白河直子(H.アール・カオス所属)、第2回がYOUYA、そして今回が、森山開次という、現在日本の現代舞踊の最前線で活躍するダンサーがソロを踊った。森山開次は踊りに入るときに、手を後ろにもっていき髪を少し前につまみ上げる動作をする。まるで橋懸かりに現われた能のシテを思わせる表現だった。格闘技の蹴りのような動きもあり、その彫刻にたとえられることもあるという身体の独特の動きに興奮させられる。オレステスのボイボス=アポローンに対する懐疑と怒りと懇願の感情が一つの身体に交錯したり、入れ替わったりしながら、大樹を貫く雷のように走った。原作では『オレステース』と『タウリケーのイピゲネイアー』どちらも「困った時の誠実な友は/船乗りが凪にあうより心づよいもの」(岩波版全集8・中務哲郎訳)とオレステスが信頼を寄せる、ピュラデスの出番が多く、この二人の友情も重要な主題になっているはずであるが、この舞台ではシンプル化して、印象を鮮明にしている。前回もエレクトラを歌ったソプラノの飯田みち代は、今回顔のメイクもギリシアびと風にして、よりオペラ的表現となっていた。
 今回も大平清が中央アジアの楽器を演奏し、中国のウイグルの音楽まで連なる音楽文化伝播の展望でこの3部作の音楽がつくられている。なるほど原作でも、コロスがこう語っているのだ。
  ご主人様、お返しの歌をうたいましょう、
  アシアーの歌を異国の響きにのせて。
  死者にはむなしい挽歌の調べを、
  ハーデースのうたうあの歌の調べ、
  讃歌とは似ても似つかぬ歌を。 —『タウリケーのイピゲネイアー』(岩波版全集7・久保田忠利訳) 
 最後の女神アテナの「さあ、風の息吹よ、アガメムノンの息子をアテナーイヘ/海上遥か送るのだ」(同訳)にあたるところの、ソプラノの飯田みち代と、バリトンの成田博之の二重唱は、絶望からの救済を歌ってあまりに美しかった。エウリピデス作品の定番である、「機械じかけの神=デウス・エクス・マキーナ」による救いに、笠松泰洋は現代の祈りを表現したのである。(2005年7/26記)

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オデュッセウスの指示により、青年ネオプトレモスは、自分もオデュッセウスによって父アキレウスの形見の武具を奪われ、故郷にもどる航海の途中なのだと島の岩屋を訪れたのである。騙しの企みはまんまと成功し、ヘラクレスから譲られた弓もピロクテテスは手放してしまう。ところが、ネオプトレモスは、弓も返し、航海の目的地がトロヤの戦場であることを白状してしまう。オデュッセウスのように勝利(ニケ)のためなら卑劣な仕方も辞さない(ニカン カコス)よりも、正々堂々と立ち向かって失敗するほうをよしとする、ネオプトレモスの本性(ピュシュス)が、彼の翻意を促したのである。このあたりの内面の葛藤は、夏目漱石の「こころ」を思わせる。しかしギリシア悲劇である。最後は、デウス・エクス・マキナ(行き詰まりを解決する神=機械仕掛けの神)」としてヘラクレスが出現し、トロヤの戦場にピロクテテスが赴けば、治癒神アスクレピオスによって踵の傷は癒され、ヘラクレスの弓を使った戦闘でネオプトレモスとともに勲功をあげ、英雄となるだろうことを告げ、ピロクテテスは、トロヤの戦場に出立することを決意するにいたるのである。無人のレムノス島での10年におよぶ孤絶と悲惨は、かくして劇的結末を迎えることになる。感動的である。「オイディプス王」と逆の人生ということになる。