なつかしの文月

 
(「FLASH」2009年3/10号:撮影・野澤亘伸(ひろのぶ))
 昨日七夕の日に、東京池袋演芸場にて「桂歌丸師匠咄家生活60周年記念」の高座があったそうだ。そういえば、師匠のお嬢様のラクドル田代沙織さん(都立小石川高校出身)のお誕生日が本日7/8。さらなるご精進あれ。

 この月になると、2003年〜2005年の毎7月に、笠松泰洋音楽監督・作曲・台本構成の『エレクトラ3部作』〈アトレウス家の崩壊と再生〉を、王子ホールで鑑賞していたことを思い出す。感動的で、夏の花火のような一瞬の華やかさを味わった記憶が鮮明である。HP記載のそれぞれの観劇記を再録し、あらためてギリシア悲劇の世界に浸ってみたい。

◆7/17(木)夜は、銀座王子ホールにて、笠松泰洋作曲・台本構成・指揮、大島早紀子演出による音楽劇、ギリシア悲劇三部作中第1話『姉イピゲネイアの犠牲』を鑑賞した。トロイアを攻めようとするギリシア軍は、千隻の軍船を動かす風を求めて、予言者の言葉に従い、将軍アガメムノンに長女イピゲネイアを生け贄として捧げることを迫った。騙されて港に呼び寄せられた母のクリュタイムネストラとイピゲネイアは、アガメムノンに助命を懇願するが、苦悩の末、父は決断する。娘は、最終的にはギリシア軍の勝利のために、自らの宿命を受け入れる。しかし、妻クリュタイムネストラは、夫を許さず復讐の炎を秘かに燃やし続ける。ここまでが、今回の物語。全部上演は三年がかりという長丁場である。
 演劇畑からは、朗読の中島朋子(トーマス・オリバー・ニーハウス演出の『時間ト部屋』を、ベニサンピットで観たばかりだ)、オペラ畑からは、ソプラノの野々下由香里(別な日は林正子)、ダンス畑からは、白河直子(H・アール・カオスの中心ダンサーだ)といったメンバー。楽器編成は、ヴァイオリン(室屋光一郎)、サズ=トルコの弦楽器(大平清)、チェロ(安田謙一郎)、ピアノ(山田武彦)、クラリネット(高子由佳)、ファゴット(藤田旬)、ベース(齋藤順)、パーカッション(萱谷亮一)。時折、古代からあるというトルコの葦笛のような素朴な楽器が、齋藤順によって吹かれる。サズも古代からの弦楽器だそうだ。古代と現代との音の共鳴が企てられているわけだ。
 朗読も、歌唱も、ダンスも、ときに将軍の、ときに娘の、ときに母の悲嘆と絶望を表現して、一瞬たりとも緊迫の時間は弛まない。とくに白河直子の踊りは素晴らしい。その細い、裸の胸はほとんど乳首しか見えない中性的身体が、撓うように自在に折れ曲がり、情念の襞を表現する。このダンスを軸としたコラボレーションの連鎖が、ついには古代を招き寄せ、時代を超越した人間の悲しみと愚かさを示すことに成功している。白河直子は、まるでいまは亡きジョルジュ・ドンが転生した人なのではないかと、思わせた一晩であった。来年の7月が愉しみである。(2003年7/20記)

◆7/16(金)夜は、銀座王子ホールにてギリシャ劇「エレクトラ3部作」〈アトレウス家の崩壊と再生〉の第2話『エレクトラ』を鑑賞した。昨年の第1話『姉イピゲネイアの犠牲』につづく作品である。作曲・台本構成・指揮は、演出家蜷川幸雄氏と共同の仕事をしてきた音楽家笠松泰洋、語りが、ギリシアでの『オイディプス王』公演から帰ったばかりの麻実れい、ソプラノ独唱が飯田みち代、ダンスがYOUYAという布陣で、アンサンブルは多分昨年と同じメンバー。コロスを欠いているので、これは、オペラの範疇に入る表現形式であろうが、語りが声の音楽性をもって歌唱とからみ合うところに特色があり、さらに情念のうねりをダンスが表現し、対等の資格で加わってくる。ソプラノはエレクトラを、ダンスはオレステスの役を演じるが、語りは、エレクトラであったり、クリュタイムネストラであったり、アイギストスであったりする。麻実れいの声は、ギリシア悲劇研究家の山形治江さんが評するように〈視覚的音楽性〉のある声で、ソプラノの歌唱と堂々とわたり合いつつ、そのときそのときの情景を眼前に彷佛とさせる力をもっている。それぞれの表現は抜群でありながら歌唱とダンスと朗読に統一が欠けていた、昨年の舞台より明らかに向上していた。ただキリスト教およびイスラム教の一神教の教説に慣れた現代、ギリシア神話の神々のまとまった意向を劇の展開の過程でイメージする困難と戸惑いを、やはり感じてしまった。(2004年7/17記)

笠松泰洋氏が、作曲・台本構成・指揮を担当した『ギリシャ劇「エレクトラ3部作〈アトレウス家の崩壊と再生〉』も今年が最終第3話、7月14日(木)銀座王子ホールにて観劇した。台本の元の物語は、第1話が『アウリスのイーピゲネイア』、第2話が、『エレクトラー』、そして今回の第3話が、『オレステース』と『タウリケーのイピゲネイアー』(いずれも岩波版『ギリシア悲劇全集』のエウリーピデースの巻3、4、5の題名からで、この台本とはカタカナ表記が異なる)である。
 ダンサーによる身体表現が、朗読・語り(今回は、篠井英介)および歌唱と火花を散らす舞台の展開は3回とも共通である。第1回がアンドロギュヌス的ダンサー白河直子(H.アール・カオス所属)、第2回がYOUYA、そして今回が、森山開次という、現在日本の現代舞踊の最前線で活躍するダンサーがソロを踊った。森山開次は踊りに入るときに、手を後ろにもっていき髪を少し前につまみ上げる動作をする。まるで橋懸かりに現われた能のシテを思わせる表現だった。格闘技の蹴りのような動きもあり、その彫刻にたとえられることもあるという身体の独特の動きに興奮させられる。オレステスのボイボス=アポローンに対する懐疑と怒りと懇願の感情が一つの身体に交錯したり、入れ替わったりしながら、大樹を貫く雷のように走った。原作では『オレステース』と『タウリケーのイピゲネイアー』どちらも「困った時の誠実な友は/船乗りが凪にあうより心づよいもの」(岩波版全集8・中務哲郎訳)とオレステスが信頼を寄せる、ピュラデスの出番が多く、この二人の友情も重要な主題になっているはずであるが、この舞台ではシンプル化して、印象を鮮明にしている。前回もエレクトラを歌ったソプラノの飯田みち代は、今回顔のメイクもギリシアびと風にして、よりオペラ的表現となっていた。
 今回も大平清が中央アジアの楽器を演奏し、中国のウイグルの音楽まで連なる音楽文化伝播の展望でこの3部作の音楽がつくられている。なるほど原作でも、コロスがこう語っているのだ。
  ご主人様、お返しの歌をうたいましょう、
  アシアーの歌を異国の響きにのせて。
  死者にはむなしい挽歌の調べを、
  ハーデースのうたうあの歌の調べ、
  讃歌とは似ても似つかぬ歌を。 —『タウリケーのイピゲネイアー』(岩波版全集7・久保田忠利訳) 
 最後の女神アテナの「さあ、風の息吹よ、アガメムノンの息子をアテナーイヘ/海上遥か送るのだ」(同訳)にあたるところの、ソプラノの飯田みち代と、バリトンの成田博之の二重唱は、絶望からの救済を歌ってあまりに美しかった。エウリピデス作品の定番である、「機械じかけの神=デウス・エクス・マキーナ」による救いに、笠松泰洋は現代の祈りを表現したのである。(2005年7/26記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上ノウゼンカズラ(ピンク)、下ルリマツリ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆