ギリシア悲劇を読む

 吉田敦彦学習院大学名誉教授の『ギリシア悲劇を読む—ソポクレス「ピロクテテス」にみる教育劇』(青土社)は、極上とされるワインについての講義を、そのワインを呑みながら拝聴するといった感じで、贅沢なときを過ごせる。この悲劇作品そのものはすでに、岩波版『ギリシア悲劇全集・4』の「ピロクテーテス」(片山英男訳)を読んでいる。面白くは読んだが、「オイディプス王」「アンティゴネ」と並ぶ評価が欧米でなされているとは、そのときは知らなかった。
 ピロクテテスの物語をめぐっては、現存していないがアイスキュロスエウリピデスの作品が先行してあったらしい。アイスキュロス作品では、主人公のピロクテテスが毒蛇にかまれオデュッセウスの奸計により置き去りにされたレムノス島は有人の島で、正体を見破られずにオデュッセウスが巧みに説得して、ピロクテテスをギリシア軍の陣営に連れ戻すことに成功するという筋立てだ。エウリピデス作品では、アテナ女神の力で老いぼれた乞食に変身したオデュッセウスが島に乗り込み説得しようとするが、まるでプロ野球でFA宣言の野球選手を奪い合うように、いっぽうのトロヤからもピロクテテス参戦を求めて使者が派遣されていて、弁舌を競う論戦にオデュッセウスが勝利して、ピロクテテスをギリシア軍に復帰させることに成功するという筋立てだそうである。
 これらの作品とソポクレス作品が決定的に異なるのは、英雄アキレウスの子ネオプトレモスを準主役として登場させたことである。伝承ではピロクテテス参戦の後、スキュロス島から迎えられたというネオプトレモスが、ソポクレス作品では、アキレウス戦死の直後に呼ばれ、父の遺骸との対面を果たしてから、その偉大さへの憧憬を胸に秘めつつ、オデュッセウスとともにレムノス島に赴いたという展開となっている。
 オデュッセウスの指示により、青年ネオプトレモスは、自分もオデュッセウスによって父アキレウスの形見の武具を奪われ、故郷にもどる航海の途中なのだと島の岩屋を訪れたのである。騙しの企みはまんまと成功し、ヘラクレスから譲られた弓もピロクテテスは手放してしまう。ところが、ネオプトレモスは、弓も返し、航海の目的地がトロヤの戦場であることを白状してしまう。オデュッセウスのように勝利(ニケ)のためなら卑劣な仕方も辞さない(ニカン カコス)よりも、正々堂々と立ち向かって失敗するほうをよしとする、ネオプトレモスの本性(ピュシュス)が、彼の翻意を促したのである。このあたりの内面の葛藤は、夏目漱石の「こころ」を思わせる。しかしギリシア悲劇である。最後は、「デウス・エクス・マキナ(行き詰まりを解決する神=機械仕掛けの神)」としてヘラクレスが出現し、トロヤの戦場にピロクテテスが赴けば、治癒神アスクレピオスによって踵の傷は癒され、ヘラクレスの弓を使った戦闘でネオプトレモスとともに勲功をあげ、英雄となるだろうことを告げ、ピロクテテスは、トロヤの戦場に出立することを決意するにいたるのである。無人のレムノス島での10年におよぶ孤絶と悲惨は、かくして劇的結末を迎えることになる。感動的である。「オイディプス王」と逆の人生ということになる。
 弓も奪われて騙されたと知ったピロクテテスが嘆きの歌を歌う「第3スタシモン」のそれぞれの翻訳を比較すれば、吉田訳のことばのやわらかさと味わいがわかろうというものである。
「岩波版全集」訳)岩山に穿たれた狭間よ、/夏の暑さも氷の冷たさも知る狭間よ、悲しいかな、/今から思えば、お前とは決して離れるべくも/なかった。わたしの死を/看取るのもお前だったのだ。/うう、うう。/私の口から出る悲鳴が/充満していた哀れな住まいよ、/日々の暮らしはこの先どうなる/ことだろう。不甲斐ない。どこの何に/頼れば、食べ物が恵まれるというのだろう。/高空で怯えていたものたちよ、さあもう/ひゅうひゅう鳴る風を伝わって降りて来い。/私にはもう掴まえる手立てもない。
吉田敦彦訳)「ああ、寒い冬には私を暖め、暑い夏には冷やしてくれる岩屋のうろよ、お前と別れることは、おお、不幸な私にはけっしてできないのだ。死ぬときまでお前に看取ってもらうのが、私の運命なのだ。
 ああ、ああ、私がそこで嘗めてきた苦悩のいっぱいつまった、世にも悲惨な住居よ、私の日々の暮らしはいったいどうなるのだろうか。憐れな私は、どこから食物を手に入れるあてが得られるだろうか。
 臆病な野鳩たちよ、空の上を羽音鋭く風を切って好きなだけ行き交うがよい。私にはお前たちを捕らえる手だてはないのだから。」
 ヘラクレスは、「敵地で略奪をするときにも、神々に対して決して敬慎を欠く振る舞いがあってはならぬ」と警告しているが、「トゥンテンデ(今そこでのこれからと、生きる生涯すべてを指したこれからの多重の意味)」の清廉さを選んだネオプトレモスさえ、伝承された物語によれば、敗北して命を懇願しているトロヤの老王プリアモスを情け容赦なく惨殺しているということをアテナイの観客たちは知っていて、この劇の鑑賞のときに人間のいわば業の深さを感じただろうということである。演劇はやはり風土性をもっているのだ。

ギリシァ悲劇を読む―ソポクレス『ピロクテテス』にみる教育劇

ギリシァ悲劇を読む―ソポクレス『ピロクテテス』にみる教育劇

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家に咲いた、鉢の皐月(品種:好月)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆