生命倫理をめぐって

小松美彦・土井健司編『宗教と生命倫理』(ナカニシヤ出版)は、【倫理学のフロンティア】叢書の一冊。世界の伝統宗教キリスト教、仏教、儒教ヒンドゥー教イスラーム神道など)に関して、(1)独自の死生観、(2)従来の生命倫理とのかかわり、(3)各宗教の立場からの原理的な議論の構築、これらを主要な課題として論じた書である。
 自己決定権を中心とする生命倫理(バイオエシックス)は、実は、学問成立史的には、特殊アメリカ的な背景をもって70年代に誕生しているということを改めて認識した。(1)「消費者の権利運動」や黒人の「公民権運動」、そして「女性の中絶の権利」と「避妊薬・ピルの自由化」を求めるウーマンリヴ運動などの権利運動の高揚が、60年代にあったこと。これらの動きに連動して、「患者の権利運動」がアメリカ社会に席巻した。(2)新薬の導入に際しての、いわば広義の「人体実験」に対する総括から、「被験者の本人同意」、後のインフォームド・コンセントに結実する原則が生まれた。(3)経済問題が関係している。アメリカの医療財政・経済が瀕死の状態を迎え、ニクソン大統領は、科学技術予算の重点的な配分先を宇宙科学から医学へと大転換し、基礎研究である生命科学・生物医学に巨額を投資した。そこにはさまざまな倫理問題が内在していることから、その要請に応えるべくしてバイオシックスという学問が登場したわけである。この60〜70年代のアメリカの社会的背景によって誕生した、「この個人主義的で自由主義的なバイオエシックスが七〇年代終盤から日本にも輸入・紹介され始め、自己決定権という発想は、脳死・臓器移植や出産・中絶をめぐる議論の中で九〇年代の日本で全面開花するのである」。このことを認識せずに、「自己決定権」さえ言っていれば「生命倫理」どころか、少女の「援助交際」まで〈解決済み〉のような議論は、すでに過去のものであろう。
ヒンドゥー教の神話的世界=たとえば、入浴中のシヴァの妻パールヴァティが、美少年息子ガネーシャに、誰も家に入れないように頼んでおいたところ、帰ってきたいまだ見ぬ父シヴァを拒み、そのため、ガネーシャは、シヴァに首を刎ねられ、それを知った母が怒り狂い、その怒りを鎮めるために、シヴァが、通りすがりの一頭の象の首を刎ね、それを継ぎ足したという話などは、「現代の臓器移植やクローン技術」などと接続できそうである。
 となれば、脳死者から臓器を摘出したり、幹細胞研究のためにヒト胚を利用したりすることも、倫理的に問題ありとされにくい文化的土壌がある。現代の生命科学や先端医療が試みようとしているさまざまな生命操作の可能性について、きわめて積極的な倫理的見解が、ヒンドゥー教徒の中から出て来ても、無理からぬことといえよう。(第4章・町田宗鳳東京外国語大学教授「ヒンドゥー教に学ぶ〈いのち〉の哲学」)
◆第8章「生命があるとは、どういうことか」の齋藤かおる氏によれば、現代キリスト教思想において注目されるサリー・マクフェイグ(McFague)は、従来のキリスト教の自然的存在者ヘのかかわり方を「主体ー客体モデル」だと断じ、「主体としての神と隣人に向けられるキリスト者の愛は自然的存在者へと拡張されねばならないと述べている」そうである。
 少なくとも、バスモアらのような「委託管理者精神(stewardship)」を主張する方向性は、マクフェイグにはない。ただし、人間以外の自然的存在者の法的権利の確立や公的強制的保護を主張する方向性も、マクフェイグにはない。そしてそれは、マクフェイグが自然的存在者の権利の拡張を強力に求める環境保護運動環境倫理学の主要な流れの延長線上に位置しており、しかもその主要な流れとは一戦を画していることを示している。つまり従来、自然的存在者の主体性の尊重には、その主体の擬人的権利の拡張が叫ばれる一方で権利の代弁者たる人間がその主体に張りつくという、ある種の主権侵害が潜んでいたわけだが、「主体ー主体モデル」におけるマクフェイグの意図には、そのようなものはないということである。
 http://d.hatena.ne.jp/minajump/20100226/1267126349(「皆吉淳平:社会学生命倫理の迷い道」)
 http://www2.kaiyodai.ac.jp/~yoshi-k/MBE_ch4.pdf(「ウォーレン・T・ライク氏講演概要」)
(ドン・マクリーン「アメリカン・パイ」)

宗教と生命倫理 (叢書=倫理学のフロンティア)

宗教と生命倫理 (叢書=倫理学のフロンティア)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、6月のブルーベリー。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆