信仰の教義—スピノザの場合

 上野修大阪大学教授の「スピノザ『神学政治論』を読む」(ちくま学芸文庫)を読んだ。『神学政治論』は未読であるが、論の展開でかなり長文の引用(岩波文庫&著者訳)があり困ることはない。しかし上野教授の繰り返しての説明であっても、理解に難渋するのは、スピノザの思考の組み立て方が「転覆」していて、独特の用語を含めて咀嚼するためには行きつ戻りつ読み込まなければならないからである。
 まず時代背景についての説明がある。17世紀オランダ共和国にあっては都市のゆるい連合から成り立っていて、地理的にも政治的にも「中心」ができにくい構造になっていて、そこに「自由の実験と試練」が存在したのである。カルヴァンの厳格な予定説を支持する頑固な正統派の聖職者や神学者たちと、人間の自由の余地をある程度認めようとする都市の裕福な商人層レヘントたちとの、カルヴァン派教会内での分派対立があった。政治的には、前者は強権的な社会の締め付けを望む「総督派」で、後者は実利主義的な理由から共和国政府の寛容政策を支持する「共和派」であった。「民衆」の多くは、「自由と寛容」に反感を抱き「総督派」を支持していた。結果として『神学政治論』を攻撃する側に回ってしまう、「共和派」の寛容政策を強力に支持していたリベラルな知識人にこそこの書は読んでもらいたかったのである。
 一つのコーパス(資料体)としての聖書をどう解釈するべきか、「理性は聖書の意味に順応させられるべきだ」とする立場も、「聖書の意味のほうが理性に順応させられるべきだ」との立場も、スピノザは斥け、聖書解釈で一番大事なのは、性急に「真理」を読み取ろうとするのではなく、聖書が語っている「意味」を真理と混同しないこと、そのことを聖書解釈の基本としたのである。
「預言的確実性」と呼ばれる預言者の確信は、ある根拠を認識して何かを言っているのではなく、「そのように民に告げ、そのように語ることが神から見て正しいはずだという、自分の側に根拠のない、証明不可能で倫理的な確信」である。預言者は「正しいこと・よいことのみに向けられた心」を担保に、民の前で確信を語った。
 信仰の基礎は、もっぱら神への服従にあり、「正義と愛をなせ」との有無を言わせぬ絶対命令には「事柄の真理」とは関係なく服従すること、そういう人が敬虔な者なのである。聖書における「普遍的信仰の教義」とは七つある。1、神、いいかえれば正義と愛の生き方の真のお手本となるような最高の有が存在する→このことを知らず命令を聞けない。2、神は唯一である→そう思うことなしに絶対的な帰依・賛嘆・愛を抱くことができない。3、神は遍在する→神の目は逃れられないということ。4、神は万物に対する最高の権利と最高の権力を持つ→知らなければ絶対服従は考えられない。5、神への崇敬と服従は正義と愛すなわち隣人愛のうちにのみ存する→正義と愛をなすことが服従することになる。6、神に服従するものは救われ、服従しない者は捨てられる→そう知っていてこそ服従する意味がある。7、神は悔い改めるものをゆるす→このことを知らなければ服従する身が持たない。「普遍的信仰の教義」は、いわば「敬虔の文法」のようなもので、真偽とかかわりなく「普遍的」で、誠実な人であれば異論の立てようがないのである。つまり人が敬虔であるかどうかは、神の隣人愛の命令に服従しているかどうかで決まるということなのである。

「隣人を自分自身のように愛せ」は「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」ということで、この命令への服従の論理的な必要条件を、スピノザは問う。ある強大な第三者が彼らの上に最高権力をもって君臨することが、その答え。神の命令が無効とならないように、最高権力の「最高」を構成する論理が必然である。モーセに率いられてエジプトの支配から脱出したヘブライ人たちは、いわば「社会契約」によって自然権を神に委譲したことになるが、現実にはヘブライ人たちは民主国家と同じく統治の権利を全員で保持していた、とスピノザは言う。
……もともとヘブライ人たちの神は姿がなくて不在っぽいのだが、モーセの死後はこの不在の神の代理のそのまた不在を後継者たちが代理補佐するという形になって、ますます統治権は侵しがたいものになり、ますますだれのものでもない最高権力が、まるで本人たちの気づかない民主統治のように機能するはずだった。スピノザはこの国家を神が統治権を持つ「神政国家」(テオクラチァ)と呼んでいる。……(p.71)

 ヘブライ神政国家は神に統治権があったので、宗教的な「神の法」は国家の法であり、「神の法」は神政国家が消滅すると共に法的効力としては消滅している。オランダ共和国にあっても、正義と敬虔・不敬虔を決定するのは共和国の最高権力であって、宗教的権威を持ち出して市民政府の決定に不敬虔の文句をつけるのは統治権を奪うことになるのである。ところでこの最高権力といえども大多数の臣民の畏敬や恐れを憤激に転化してしまうような事柄には、その権利は及ばないのである。最高権力掌握者を正義へと強い、と同時に臣民各人に正義を守るように強いているのは、群集の潜在的な暴力=「群集の力能」なのである。この力能は、常に、各人の外、各人のまわりに現れ、各人の想像力を触発し、あたかもひとつの精神によってであるかのように各人を従わせるのであって、「われわれ」という主格を構成しない。最終的に革命の主体となるネグリの「マルチチュード(群集)」がスピノザ的起源をもっていても、スピノザの「群集」とは異なるのである。
 スピノザは、聖書の語る奇蹟は「自然的な事柄」としてあり得ただろうと肯定し、迷信よばわりはしていない。奇蹟は迷信ではない。
……つまりこういうことである。「奇蹟」はある統治の宗教政治体制がたまたまうまくできていて、当人たちも思わぬ「危機」克服と幸運な展開を示していることの証左であり、「迷信」はそうした体制がうまくできておらず、統治が息切れしていることの証左である。統治権の逼迫がひどくなればなるほど迷信とその扇動者が民衆を支配するのだ、と序文が言っていたのはこのことである。もっと言ってしまえば、「奇蹟」と「迷信」は、群集の力能によって定義される統治権の力能の、いわばバロメーターのようなものであって、それは当人たちの思いを超えてすでに及ぶところまで及んでいる自然の力能のひとつのあり方だ、そうスピノザは考えていたのではないか。……(p.224)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20101005/1286258267(「『ナショナリズムの由来』を読む」)