NTLive『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』観劇

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 3/5(火)ヒューマントラストシネマ有楽町で、NTLive『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を観た。休憩含めて3時間35分の長丁場、映画であるから長尺か、終わっても、世界レベルの本物の役者の実力あってのことだが、まったく長かったとは感じさせない迫力と緊張感、むろん面白さと痛快感が持続していたのであった。上映プログラムで、広田敦郎氏が「ただ“好かれる”ことを拒む芝居」と題して、作者エドワード・オールビーについてのエピソードを紹介している。

 NYタイムズの劇評家ベン・ブラントリーが自分の甥を連れ、オールビーのある新作劇を観に言った際、甥が芝居を大いに楽しんだことをオールビーに伝えたところ、こんな答えが返ってきたという—「よかった……楽しみすぎるのもよくないけどね」。オールビーは観客が“楽しめる”ような、ただ“好き”になれるような芝居を書く作家ではない。オールビーにとって、演劇は私たちを安心させるものでなく、私たちに不安を与えるべきものだった。そうして初めて人間の人間たるゆえんを描くことができると信じていた作家だったのだ。

 とくにこの『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』は、楽しめるだけではない作品の極め付けだろう。登場人物は、歴史学の大学教師の夫ジョージとその妻マーサ、パーティーで同席、終了後ジョージ&マーサ宅に招かれた、生物学の新任教師ニックとその妻ハネーの4人のみ。4人は深夜から夜が明けるまで、居間で酒を飲み続け会話のゲームを通して、罵詈雑言を浴びせながらそれぞれの弱点、虚飾、欺瞞を剔抉していく展開。舞台の形式は三一致の古典的形式。マーサは大学学長の娘で、庭師の男とできていたところを、その将来有望との判断でジョージとの結婚を選んだが、見込み違いでジョージはうだつがあがらず助教授止まりのまま今に至り、マーサはアルコール依存症に陥っている。ニックは、容姿端麗とは言い難いが莫大な収入のカルト宗教教祖の娘ハネーの「想像妊娠」を契機に、彼女と結婚するが、莫大な資産に目が眩んだことは間違いない。各人が何とかプライドを守り、アイデンティティーを保っているわけである。そこを、互いに言葉のカウンターパンチで叩きのめすのである。痛快ではあるが、気がつけば観客のプライドとアイデンティティーもぐらついてくる。怖い芝居である。

 標題の「ヴァージニア・ウルフ」は、知られる通り英国の女性作家の名前。ディズニーの短篇アニメ「三匹の子ぶた」中の「Who’s Afraid of the Big Woolf ?」をもじって、ちょうどTVバラエティー番組のギャグの如く「Who's Afraid of VIRGINIA WOOLF? 」としたもので、このフレーズでパーティーでウケたので、ジョージが居間でも何度か声にし、そして最後の決定的場面で、絶望と孤独に呻吟するマーサを抱き寄せ、何という屈折した優しさであろう、「Who's Afraid of VIRGINIA WOOLF? 」と歌って見せるのである。

 最後の最後で明らかになる真実は、二人には実は息子はいなかったのであり、マーサが語る最愛の息子とは二人のゲーム的関係を辛うじて繋ぎ止めてきた幻であったこと、そしてこの二人は、にもかかわらず他人が窺い知ることができない深いところで愛情で結ばれていること、この2点である。あれほど罵倒されていたジョージがマーサを抱擁する最後3分の場面にこそ、このドラマの驚くべき真髄が存在する。フェミニズムイデオロギー社会学・精神医学の鋭い分析も及ばないところに、人間の本質があり哀しみがあるのである。劇文学の高みに達している作品といえるだろう。

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ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』でマーサを演じたイメルダ・スタウントン(Imelda Staunton )は、ミュージカルでも一級品!