ゴーンの主題による変装曲

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 鹿島茂氏の『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)に、1846年5月25日に決行された、幽閉されていたアム要塞からの脱出行動について面白い記述がある。1836年10月ストラスブールでの蜂起失敗に続いて、1840年8月ブローニュでの蜂起を企て、ルイ=ナポレオンはけっきょく逮捕され収容されたのが、パリの北135キロに位置する町アムの要塞であった。父ルイ王危篤の知らせを契機とし、仮出獄の嘆願も叶わず「監視の目を欺いて脱獄するしかない」と決断したわけである。

 ルイ=ナポレオンの場合、いったん決意すると実行に移すのは早い。かくして、脱獄計画の布石が次々に打たれることとなった。

 まず、彼は、居住しているアパルトマンの改修工事を自費で行いたいという申請を出した。ついで、許可が下りると、部下に命じて、出入りの石工の服を用意させた。なかでも姿形がよく似たパンゲという名の一人の石工に目をつけ、その男に成り済ますことにした。決行は1846年の5月25日とした。

 当日の朝5時、起床したルイ=ナポレオンはトレードマークの口髭と顎髭を剃り落とすと、職人服に着替えた(一説によると、パンゲに脱がせた服を着たという)。そして、ひそかに運びこんでおいたマネキン人形をベッドに寝かせ、毛布をかぶせた。医師のコノーは、不在が早めに露見しないように、ルイ=ナポレオンは病気で、一日床に伏していると獄吏たちには伝えておいた。

 6時45分、パンゲと同じパイプを口にくわえ、板切れを担いだルイ=ナポレオンは、部下のチランに先導される形でアパルトマンを出た。チランはあらかじめサン・カンタンに所用で出掛けるという許可を得ていたのである。

 第一の関門は難なく突破したが、第二の歩哨の前を通りすぎるとき、緊張したのか磁器のパイプを地面に落としてしまった。だが、彼は少しも慌てずパイプのかけらを拾いあつめると、それをゆっくりとポケットに入れた。

 歩哨は笑いながら見ていたが誰何(すいか)することはなかった。はね橋を渡り、門を出ようとしたとき、むこうからやってきた二人の職人が、見知らぬ石工の顔に驚いたような表情を見せた。さすがのルイ=ナポレオンももはやこれまでと観念した。だが、彼らは咎めだてもせず、そのまま行ってしまった。( pp.51~52 ) 

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