福田恆存生誕100周年

(『龍を撫でた男』は、昭和27年池田書店より発行の初版本。『キティ颱風』は昭和25年創元社より発行の初版本で旧生松敬三所蔵本。ともに入手は2003年3月龍生書林より。)
 今年は、福田恆存生誕100周年にあたるそうで、その戯曲作品の舞台公演がいくつか企画されているようである。その一環であろうか、東京下北沢本多劇場で上演中の、M&Oplaysプロデュース公演、ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の『龍を撫でた男』を昨日2/8観劇した。原作の本は、所有しているが未読であった。初演は、1952年、長岡輝子演出で、芥川比呂志・田村秋子・宮口精二中村伸郎杉村春子ほかの出演だったとのこと。精神病理学者家則(山崎一)とその妻和子(広岡由里子)の邸宅の居間を舞台にして展開。正月のある一日とその後の、夫婦と、家則を愛する女優の蘭子(緒川たまき)と、その兄で和子に横恋慕する劇作家綱夫(大鷹明良)の4人の愛憎を描いている。植物学者で同居人の秀夫(赤堀雅秋)は、蘭子に恋するが生活力も度胸もなくだらだら生きているという設定。植物学者という設定がまったく生きていない、不可解である。シェイクスピア学者でもあった福田であるが、これはむしろラシーヌの古典劇で、蘭子も『フェードル』の台詞で、家則に迫る場面があった。しかし完全な三一致で構成されてはなく、エドワード・オールビー作『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』のほうが劇形式としては古典的といえよう。
 分別に生きる家則と、自由な情熱に生きる綱夫との対立、そして精神病の家系という宿命に悩みつつ、道徳・因襲とみずからの欲望の葛藤に揺れる和子と、内からの情熱にあくまで忠実な蘭子の相違など、それぞれの人生を交錯させて、誠実に生きることの困難と絶望を抉り出そうとしている。ところどころは面白いのだが、最後夫婦関係の崩壊によって家則が発狂する件になると、わからない。この辺は〈昭和的〉な物語なのであろうか。和子のほうが発狂したとして警官に連れ去られてしまう結末は、チェーホフの短篇を思わせるが、今日の演劇からみれば、衝撃的でもないだろう。
 蘭子役の緒川たまきさんは、舞台で観るのは初めてであるが、妖艶さが漂い存在感が感じられた。もっと脱いでもらいたいものである。
 故福田恆存氏の著作は、わが十代のころから愛読している。かつてHP記載の記事を再録して偲びたい。
……評論家で劇作家の福田恆存が逝ってから、この11月で6年になる(11/20日逝去)。
 高校生のとき評論集『現代の悪魔』を読み、明治座で『明智光秀』を見て以来、ひそかに福田のファンとなった。英文読解の授業で神様のように読まれたB.ラッセルの平和論をこっぴどく論難しているこの日本人は、大したものだと思った。福田恆存の熱狂的読者であった級友の下宿へ行き、わけもなく感動を語り合ったものだった。
 大学時代にはG.ルカーチの『歴史と階級意識』などに圧倒的に影響されたか、福田恆存の情況論や政治論には賛成できなかった。しかし一時呪術について調べていたとき『藝術とはなにか』の「呪術を信じてゐたとおもはれる原始人はあるひは今日もなほそれを信じ、おこなってゐるらしい未開人たちは、われわれが彼らをばかにするほどに─それほどむきに─その効果に頼りきってゐのでせうか。もちろん、さうだともいへようしまたさうではないともいへそうであります」の初めの一文に出くわし、その把握の深さに感心したことを思い出す。
 福田恆存サルトル『嘔吐』の主人公と同じ存在のニヒルを凝視しながら眼をそむけず、演劇的精神のダイナミズムでこれを克服しようとしたといえる。劇団「雲」の公演で福田恆存演出のシェイクスピアバーナード・ショーの芝居はほとんど見ている。福田翻案・演出の『罪と罰』の公演の際、読売ホールでチラとその痩身の姿を見たときは興奮したものである。彼にとって演劇は、本質的に大切な仕事といえ、晩年はギリシア悲劇を再考していたという。その毒のある言論のためということでもあるまいが、1971年刊行の『現代戯曲大系』(三一書房刊)には、福田恆存の作品が一つも載っていないのである。評価の高い『キティ颱風』や『龍を撫でた男』は、読みたいのにまだ読んでいない。
 戦後思想史を振り返って、福田恆存を一括していわゆる「体制擁護」派などに分類してはならない。60年代安保闘争の旗手だった清水幾太郎が情況追随的に反進歩主義の議論をはじめたら、ある英語学者でもある評論家がこれを弁護した。そのとき福田恆存は、アウグスティヌスの「ミラノの回心」に譬えた彼の清水擁護論は反左翼の全体主義にほかならない、といって厳しく批判した。「カトリック無免許運転」とはにかみながら自らの信仰告白をおこなった福田にとって、聖アウグスティヌスの苦悩の果ての回心と、時代の風見鶏の転向とを一緒にした軽薄さに我慢できなかったのであろう。
 福田恆存は、運転手兼書生を個人的に募集したことがある。友人の早大生が最後の二人の候補まで残った。自宅通学でない人にしますということで、友人は採用されなかった。いまは亡き友人の遺稿に、「福田恆存さんは書いているものからの印象と違って、とても温かい人だ」とあった。20日の命日を前にして、今存命ならどんな仕事をするだろうかと、この知識人を偲ぶのである。(2000年11/3記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、千重(せんえ)咲きの椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆