父の名

 わが父の名は、七郎右衛門でその兄弟も〜右衛門であった。実家が小学校の正門前通学路にあったため、通る小学生たちが表札を眺めてワイワイ言っているのがしょっちゅう聞こえたのであった。なおまったく関係ないことだが、昔亡き立川談志師匠が、選挙活動でこの道路を白いスーツ姿で歩いて来るのを、二階の窓から観察したことをよく記憶している。父の名を書類など書く折も、何か一言言われそうで気にすることが多かった。
 さてこの〜右衛門の名について、呉座勇一氏と並んでいまを時めく日本史家の、磯田道史国際日本文化研究センター准教授の面白い解説に出会った。猪瀬直樹磯田道史共著(対談)の『明治維新で変わらなかった日本の核心』(PHP新書)でのお話。

猪瀬:そうなると、もはや律令国家時代から培われてきた朝廷の権威や、京の有力神社仏閣の権威がなくなってしまうということになりそうなものですが、単純にそうともいえないところがおもしろい。
磯田:おっしゃるとおりで、たとえば不思議なのは、荘園の年貢を横領する人たちも、「何々右衛門」や「何々左衛門」などと、律令制度の役職に基づいた名前を名乗ろうとするのです。「右衛門」「左衛門」という言葉の語源は、律令に基づいて設置された宮城の守衛を行なう「衛門府」という役所の名前です。はては百姓のレベルまで「何々右衛門」と勝手に名乗るようになる。さらに、ちょっとした小城を持つぐらいの人は、「備前守」などと朝廷の許可なく名乗りました。「守」というのは国司の官名で、「守」が長官、「介」が次官を意味します。つまり、勝手に「守」を名乗る人は、国司を僭称しているということです。
 前章で『芋粥』の話が出ましたが、平安時代官選派遣知事つまり中央から派遣された知事が強かった時代だとすると、中世は市会議員や県会議員レベルの人たちが中央に国税を納めず、土豪として勝手に「俺が知事だ」などと名乗りはじめた時代なのです。これは鎌倉末期頃から、どんどん激しくなっていきます。(pp73~74)

 なるほど下野国(都賀郡)の百姓の系譜に生まれたわが父は、どこかの時点で「勝手に名乗るように」なった〜右衛門の名前を継承していたのであったか。