調布はアンヌの町でもある

  昨日(7/24)NHKテレビ朝の放送で、東京調布の町をとり上げていた.「ちりとてちん」以来の朝ドラの傑作「ゲゲゲの女房」縁の町ということで、水木しげるの絵とともに、雑貨屋さんなどの店舗やかつての町の風景を紹介、昭和の時代を偲ばせた.決して昭和という時代は明るくは懐旧できないが、ほのぼのした雰囲気を伝えようとしたところは悪くない.
 ところで調布は、「ウルトラセブン」アンヌ隊員=ひし美ゆり子さまに縁ある町でもある.わが千葉県からは遠すぎて「味の素スタジアム」でサッカーを観戦するので出向くほかは、立ち寄ること稀で、夜の「アジアン・タイペイ」で一度だけ拝眉の栄に浴したのみだが、想像のなかでアンヌ=ひし美ゆり子さまの町として親近感をもっているのである.
 過去HPで記述したひし美ゆり子さまに関するものを三つ選んで再録しておきたい.

 
(左:ひし美ゆり子 右:ラウラ・アントネッリ
1)深作欣二監督の『新仁義なき戦い・組長の首』をビデオ(東映ビデオ)で観た。北九州最大勢力のヤクザの組長の跡目をめぐる抗争という、まるで神話劇の上演のようなお馴染みの筋立てである。有力次期組長侯補が成田三樹夫、彼への跡目移譲を拒否する現組長が、後に水戸黄門役がはまり役となった西村晃、組長の推した男を援護し成田と対立する流れ者が菅原文太で、監督も深作、テンポよく面白かった。実はかつて、大井武蔵野館で「石井輝男監督・女優ひし美ゆり子特集」の企画があったときに、1回観たことがあり、この作品もお目当てはひし美ゆり子であった。菅原文太兄貴が飛び込んでくる直前、成田若頭の情婦役のひし美ゆり子姉さんが鏡に白分の裸身を写している場面がある。昔人いきれでムンムンしていた狭い館内で、ここのところで驚きとも悲鳴ともため息ともつかない声が挙がったことを覚えている。そうだ、ウルトラセブンの隊員服に封じこめられていた美しく見事な肢体に、観てはならないものを観た興奮を、皆が共有したのであった。
 マッシモ・ダラマーノ監督の『毛皮のヴィーナス』(DVD/アイ・ヴィー・シー)で、隣の部屋の男が覗いているのを計算しながら、鏡の前で裸の体を晒す女優ラウラ・アントネッリ(ただし代表作は、ルキノ・ビスコンティ監督『イノセント』)と、一世代下の女優ひし美ゆり子は、顔の雰囲気もそうだが、その肢体の放つ健康的な官能性において似ているようである。(2002年8/13記)

2)「食」は文化の根幹であるとの認識にもとづいて、「食」の文化を経済活動と関連づけながら通時的かつ共時的に考察したのが、榊原英資氏の『食がわかれば世界経済がわかる』(文藝春秋)である。200ページ近いが、各ページの行間がだいぶ開いていてボリューム的には新書程度の本で、すぐに読了。なかなか勉強になった。
 結論のところが通奏低音となって、近代からポストモダンの現代および未来にむかっての「食」の文化の展開と、これからのあるべき方向を展望している。
「古い時代のアジアが一つのモデルになって、ポストモダンの新しい食文化が生まれようとしているわけです。「食」のポストモダンとはすなわち「リ・オリエント(アジア復権)」であり、21世紀型の「食」はアジアにあるのだ、という方向性が今、明らかになりつつあるのです。/このことをもっと、日本人、いやアジア人は自覚すべきなのではないでしょうか。」
 いまやニューヨークでも評価の高いレストランに日本料理の店が少なくなく、フランスでも日本人の料理人のいない三ツ星レストランはないとの話も聞かれるほど、日本料理や日本の食材が世界的に注目されているそうである。著者がたびたび紹介する京都の「吉兆」などで食べたこともない<下流社会>の人間なので、印象としてピンとこないところもあるが、寿司が海外で人気の料理になっていることは知っていた。健康志向という時代の要請にも後押しされて、もっともっと日本料理全般への注目と評価が高まっていることを知らされた。
 香辛料を扱う東西の中継の貿易などで富を蓄えたイタリア諸都市にすぐれた食文化が発達し、1533年カトリーヌ・ド・メディチがアンリ2世と結婚して、その食文化がフランスの宮廷に伝えられたことが、近代ヨーロッパ料理の中核となったフランス料理の始まりである。さらに1600年アンリ4世の許へメディチ家のマリーが嫁ぎいよいよイタリアの食文化が伝わるとともに、スペイン王家からも王妃を迎えたことにより、スペイン王家の料理文化もフランス料理には入っているのだそうだ。なるほどフランス料理がヨーロッパ料理の横綱というわけだ。「アンリ4世自身は、上品さからほど遠く、ニンニクを丸かじりすることが大好きで、その体臭は十歩離れても匂ったと言います」というところには驚いた。ただしいくら王様でも「匂った」ではなくこの場合は、「臭った」でしょう。
「食」を文化として捉えるフランスは、「食」を資源として捉えるアメリカの工業化された農業が大量に生産流通させるファストフードの<侵略>に対して、無抵抗ではなかった。日本や中国では、あっさりとその侵入を許してしまった。工業的に飼育された動物の肉を食材とし調理が規格化されていて、動物性油脂・砂糖・塩分の多い、しかも中毒性のある味付けのファストフードは、食文化の洗練および健康の維持の観点から、安易に日常的に食すべきではないだろう。季節の食材を上手に利用する庶民の和食、「医食同源」の伝統のある中華料理、多彩なハーブが体によい東南アジア料理など、これから見直して、アンヌ隊員もしくは日本のラウラ・アントネッリひし美ゆり子さんのお店「ASIAN TAIPEI」などで大いに食べまくるがよろしかろう。レストランも、フランスで一般化したのがフランス革命以降であるのに対して、中国では、その2000年以上も前の漢の時代から存在していたのであって、どちらの食文化が世界の中心になるのかということでは、まさに著者が展望するように、経済の興隆と連動して「リ・オリエント」なのであろう。(2006年3/20記)

3)この春に購入しておいた押井守原作・総監修のDVD『真・女立喰師列伝』(ジェネオン エンタテインメント製作)を、その気になってようやく鑑賞.六つのそれぞれ独立したエピソードからなるオムニバス映画だ.全体の監修は押井守が担当し、第1と第6のエピソードを押井守が直接監督している.第4エピソード「草間のささやき—氷苺の玖実」はいささか退屈であったが、あとは実に面白かった.「攻殻機動隊」「イノセンス」などのアニメものは、部分的にはともかくそれほどのめり込めなかった。この実写版『女立喰師列伝』は、時間の経過を忘れさせた.
 さてこの監督がみずから監督した第1話「金魚姫—鼈甲飴の有理」には、永年のアンヌ隊員=ひし美ゆり子への思い入れが感じられる.「飴細工の店で、主人に金魚の細工を求め、それが意に適う出来であれば自分の肌に入れた金魚の刺青を進呈し、適わざれば店の飴すべてを持ち去る」という伝説の「鼈甲飴の有理」を、写真家が伊豆の裏びれた温泉街に探しあて、その肌の写真を撮らせてもらう話.他の人の制服だったためきつい服に耐えかねていたかつてのアンヌのバストをついに、この監督はカメラに収めたのであった.濃い緑豊かな庭をもつ、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の世界そのままの薄暗い部屋で、往年の女立喰師は帯を解く.乳房が露になり、背中と乳房に金魚の図柄の刺青が浮かび上がる.
「雑誌のグラビア見てても、ふっくらした若い子の体って全然興味がないわけ。なんかね、ちょっと年とった人が好きだっていうのもそれがあるから。手とか二の腕とか、肉が落ちて骨格がでてくるとか、そういう少しくたびれた皮膚の腕が好きなんです。足なんか典型的にそう.だから胸なんかも少し下がっている方が好き」(押井守監修「球体関節人形展」2004年カタログの押井守語録)。
 カメラマン(坂崎一)が、暗室で現像定着の処理をすると、写った乳房から刺青の金魚が水に泳いで飛び出ていく.素晴らしい映像の詩だ.谷崎の「人魚の嘆き」ならぬ「金魚の嘆き」とでもいえようか。押井守が愛する、パーツとしての乳房に「女のいのち」を発見したのだろう.感動した.松浦寿輝が観た「ゴダールの孤独な乳房」ではなく、まさにパーツとしての乳房を描いているのである.押井守に映画創造の才能が欠けていたとすれば、ただの変質者として遇されたかもしない.
「『勝手に逃げろ』におけるアンナ・バルダッチーニの乳房は、イマージュとしての乳房につきまとう奇妙な孤独がぎりぎりまで誇張された極端な映像だと言っていい。そこでは、性的魅力という点での乳房の価値が問題とされながら、同時にワタシニ触レルナという乾いた要請が貫徹しているので、われわれの視線は奇妙な背理に引き裂かれ、何をどう見たらよいかが不意にわからなくなってしまう.いわば、視力の導入による乳首と唇の離反という出来事それ自体が、寓話的かつ批評的に再現されているかのようでもある」(『is』1994/66号・松浦寿輝「乳房が眼を閉じる」)。 (2008年6/22記)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上ルリタマアザミ(Echinops)の花と花芽、下ガーベラ(Gerbera)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆