清澄白河とカフェ文化

 清澄庭園東京都現代美術館は行っているが、清澄白河駅周辺のカフェには、まだどの店にも入ったことがない。この街にカフェ文化が熟成するのかどうか見守りたい。
 ウィーンのカフェ文化について、池内紀(おさむ)氏を相手とした、故種村季弘(すえひろ)氏の対談「華麗なる没落」で知ることができる。
種村メッテルニヒが「私の家の裏通りからアジアが始まる」といったように、地理的にいえばオーストリアは、ドナウ河を挟んですぐアジアと接しているんですよね。実際にトルコに何回も占領されかかっているし、まあ辺境ですね。西部劇でいえばアラモ砦(笑)。
池内:ヨーロッパの辺境ですね。
種村:それから町はあるんだけれど、住宅事情が悪いとかいう以前に彼らにはノマド的、遊牧民的なところがあるんですね。カール・クラウスが、カフェ・ツェントラルの話を書いているけれど、ここに来る客たちはみんな、ノマド的な家庭性があるといっている。カフェを自分の家にしちゃっているようなところがあって、彼らは、そこで小説書いたり、詩を書いたり、トランプやチェスをしたり、あるいは編み物をしてたりしてたんですね。今でもそうですけれど、そういうカフェが町のいたるところにあって、ウィーン独特のカフェ文化が発達したんですね。
池内:プライベートでも公の空間でもない、ちょうどその中間なんですね。そこでごく親密な個人的な話も純粋にプライベートなものではなくて、カフェでするための話という感じでね。半ばフィクションのような部分もある。
種村:演技的なんですね。
池内:ええ演技的空間なんです。
種村:それでカフェに集まる人間自身が、非常に矛盾しているんですね。「カフェ・ツェントラルのセオリー」を書いたアルフレート・ポルガーがいっています。ここでは人間に敵対的な奴が、同時に人間が大好きなんだ。カフェ・ツェントラルとは、カフェではなくて、一つの世界観である。しかし、それは世界を見ないための世界観だ(笑)。で、そこに来る人間の話は、みんな人間憎悪の話ばかりなんだけれど、その憎んでいる人間がいないと話にならないという、アイロニーの上に成立している社交性だというんですね。まあ、ジャーナリストは、今でもみんなそれでメシを食っているんだけどね(笑)。……⦅『種村季弘対談集・天使と怪物』(青土社・2002年)pp.272~273 ⦆
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120602/1338631701(「『エリザベート』観劇記:2012年6/2」)

ベルトルト・ブレヒト作・クルト・ワイル作曲『三文オペラ』1983年5月五反田簡易保険ホールにて、ウィーン国立ブルク劇場公演。アドルフ・ドレッセン演出。)