池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(新潮選書)を読む


 池内恵(さとし)東京大学准教授の『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(新潮選書)を読んだ。1916年5/16締結、今年で百年目にあたる「サイクス=ピコ協定」は、「オスマン帝国の崩壊の後に、多様な民族・宗派・部族・党派に結束する諸勢力が複雑にひしめく中東地域に、再び国家の秩序を与え、新たな国際秩序を作るための解決案だった」が、近頃中東の混迷の原因を単純明快にこの協定に帰する傾向がある。たしかに「サイクス=ピコ協定」は、「現在の中東の成り立ちのある根本的な部分を基礎づけている」し「悪い」のであるが、そう言っているだけでは「現実を理解するという意味でも、将来を見通すという意味でも、そして解決策を見出すという意味でも、先に進めない」のである。欧米諸国とロシアを加害者、中東諸地域・諸民族を被害者としてのみ限定してしまうのは、歴史的事実と現状の複雑さを見落とすことになる。池内氏は、この著書でそのことを警告している。大いに啓蒙されることとなった。
◯「イスラーム国」は、サイクス=ピコ協定の秩序に代わる、より妥当な秩序を示してはいない。しかし「イスラーム国」が、サイクス=ピコ協定に基づく枠組みによって維持されてきた中東の国家や国際秩序に挑戦し、そのほころびに付け込んでいることは確かだろう。サイクス=ピコ協定に始まる一連の協定や条約の枠組みによって、中東の国家と社会の国際関係はどうにか維持されてきた。しかしその秩序は矛盾や脆弱性を孕んだものだった。(p.15)
第一次世界大戦中に結ばれたサイクス=ピコ協定は、戦後に結ばれた二つの条約によって大きく修正されている。正確に言えば、サイクス=ピコ協定の受け入れを拒む諸勢力が台頭し、それらの勢力の実力をもってする現状変更を受けて、二つの条約が結ばれ、その結果として近代の中東の諸国家システムが出来上がっていった。
 サイクス=ピコ協定に続いた二つの条約とは、一つは一九二〇年のセーヴル条約であり、もう一つは一九二三年のローザンヌ条約である。
 サイクス=ピコ協定が(理解の程度はともかく)よく知られ、頻繁に言及されるのと比べて、セーヴル条約とローザンヌ条約は、よほどの歴史好き、中東通以外には、ほとんど知られていないだろう。しかしサイクス=ピコ協定は、セーヴル条約およびローザンヌ条約とセットにすることで、その意義と限界がより明らかになる。この三つの協定と条約を、一まとまりのものとして理解することによって、中東の国家と国際秩序を形成するという課題が、いかに大きく困難であるかが見えてくる。(p.35)
オスマン帝国が崩壊したのを受けて、それまで支配下に置かれていたギリシア人やアルメニア人やクルド人などの諸勢力が蜂起し、近隣諸国や域外の大国に支援を求めた。近隣諸国・大国はそれらに関与・介入して勢力圏を競った。その結果として出現した極端に細分化された諸民族の領土・自治領域を確定しようとした。これがセーヴル条約だった。それに対して、トルコ人の居住区の分割を拒否してトルコ人が台頭し、戦争によって近隣諸国の侵入を阻止し、支配下の諸民族の蜂起を実力で平定して、その実効支配を諸大国に承認させたのがローザンヌ条約ということになる。(p.44)
地域大国が強い指導力を発揮して、地域に内発的で自生的な秩序を形作れば、域外の大国もそれを追認するしかなく、また追認することに利益を見出すだろう。しかし現在の中東は地域大国が複数存在し、その競合に終着点が見えてこない。そして、地域大国間は直接の紛争に陥ることは慎重に避け、むしろ内戦や社会の分裂を抱えた弱小国への介入を通じた代理戦争によって影響力と威信を競い合っている。これは地域大国間の「熱戦」や「世界大戦」といった破滅的事態を避けるための「冷戦」の構造に近づいており、かなりの長期間持続しうるだろう。そのため、ローザンヌ条約で可能になったような、いずれかの地域大国の急速な台頭によって他の勢力を制圧するか沈黙させることで秩序が形成されるという終着点に、近い将来にはたどり着きにくい。(p.49)
◯依然として西欧諸国は、トルコに対する矛盾した思いに揺れている。一方で「強いトルコ」にヨーロッパを支配されることを恐れるが故に、EU加盟も結局認めることはない。少数民族の人権や歴史認識問題を根拠に介入して揺さぶり続けることになる。しかし他方で「弱いトルコ」は西欧諸国の国益に反する。中東国際政治の礎石を揺るがし、混乱やテロの温床となり難民の波を解き放ちかねない。現在は、依然として「強いトルコ」をどこかで恐れつつ、クルド系反政府組織との紛争や、「イスラーム国」の浸透、そしてロシアとの無謀な紛争によって、不安定化した「弱いトルコ」が出現しかねないことをもまた恐れていると言えよう。(p.69)
◯なお、クルド人はこの四ヵ国(※トルコ・イラク・シリア・イラン)以外に、隣接する南コーカサスに位置するアルメニアアゼルバイジャンにも居住している。主権国家に分かたれた現在の国境線の中に置いてみると理解しにくいかもしれないが、オスマン帝国ロシア帝国の版図の中に置きなおしてみるとそれほど不思議ではない。クルド人の広がりは、帝国内での自由な移動、あるいは強制移住や難民としての不本意な移動の双方を通じて生じたものである。(p.84)
オスマン帝国が近代化と集権化を進める中で、クルド人アナトリア東部の軍部隊の兵員として帝国の統治に組み込まれていた。そのため、アルメニア人虐殺や強制移住の過程での略奪や殺害など、オスマン帝国の政策によってもたらされた少数民族の迫害を、現場で実施する、あるいは隣人として加担するという場面が多くあった。「少数民族」とは常に迫害される哀れな対象ではなく、時に迫害する側にも回った歴史を持つ。(p.86)
オスマン帝国の崩壊はいくつもの「民族の故郷」を実現したが、クルド人のように国家を得られず、独立への希求を後世に託した民族もあった。ギリシア人やアルメニア人のように、獲得を望んだ領土のほんの一部しか独立国家の領土とし得ない場合も多かった。それらは「民族の故郷」への大量の難民を生みだすとともに、独立した領土の中で少数民族と化した人々を逆に難民として放逐することになった。(p.117)
◯(※映画『アラビアのロレンス』について)映画では、英国の裏切りに憤るロレンスを、ハーシム家のファイサル王子もまた突き放す。この場面は、民族主義を掲げる各地の指導者が、域外の大国の介入に表向きは反発しながら実は利用しているという中東政治の根深い問題を巧みに表現している。「アラビアのロレンス」の評判を通じて「アラブの反乱」が評判となり、アラブ民族独立の大義が知れ渡り、サイクス=ピコ協定の悪評が高まって交渉力を強めた今、ファイサル王子にとってもうロレンスに用はない。サイクス=ピコ協定を前提としてイギリスと交渉し、ハーシム家にどれだけ有利な条件を勝ち取るか、イギリスの支援を得られるかが、次の課題となる。(p.132)
◯(※「ケリー=ラブロフ合意」をめぐって)これはまさに新たな「サイクス=ピコ協定」を作るようなプロセスである。「アラブの春」後の中東の混乱の沈静化と、その後の中東地域の秩序の形成において。米・露の協調と合意が重要な要素となるだろう。
 しかし米・露の交渉が中東の現地の情勢を決定的に変えるかというと、そうとは言い切れない。たとえ米・露がなんらかの合意に達しても、それを現地の当事者が受け入れなければ、一つの内戦が終結しても、また新たな紛争が発生して、また別の合意を必要とするような事態を生じさせるだろう。(p.136)
 昔デビッド・リーン監督作品『アラビアのロレンス』は観ている。