『治天の君』観劇



 昨日11/3(木)は、東京世田谷区太子堂のシアタートラムで、劇団チョコレートケーキのマチネー公演『治天の君』を観た。第21回(2014年)読売演劇大賞の選考委員特別賞を受賞した舞台で、演劇評論家渡辺保氏は、その公演チラシで、その扱っているテーマの今日性と普遍性から「現代日本演劇を代表する作品の一つ」になっていると評価している。今回は、その再演の舞台である。
 大正天皇嘉仁(よしひと)の苦悩と葛藤の人生を、貞明皇后節子(さだこ)の回顧という形式で展開する。脚本は古川健、演出は日澤雄介。藝術・藝能の世界での○○賞受賞など、生来の天の邪鬼もあってほとんど信用していないが、この舞台は上質で、今年観劇した数少ないなかでいちばんである。
 日本国家という家を存続繁栄させるための〈神棚〉としての天皇存在を、明治天皇睦仁(むつひと)は私情を抑えて完璧なまでに演じ切った。ところがその子の嘉仁は病弱でもあり、ひとへの優しさも父への私的な感情も抑制できない。〈大君は神にしませば〉こそ、民の心はまとまる。ハムレットの父の亡霊のように、明治大帝の亡霊が登場し、帝(みかど)はどうあるべきかを嘉仁に説く。皇太子裕仁(ひろひと)は祖父である明治大帝を尊崇し、ついに髄膜炎を患って判断力を失った父大正天皇を、陰で「許して下さい」と言いつつ裏切って摂政の位につき、そして大正天皇崩御のあと昭和天皇となる。昭和天皇の下、4月29日=「天長節」を設け、それまでの11月3日の「天長節」を「明治節」とし、明治大帝の神的権威を称揚するべく努めたのである。
 天皇と象徴としての玉座への、皇太子、政治家、侍従長らの恭順の礼が舞台で何度も示され、空虚なる中心が美しい儀礼の実践によってたしかに〈存在〉してしまう恐ろしさと不可思議さを暗示して、みごとである。貞明皇后節子を演じた松本紀保の声と仕草には気品が漂い、先帝(大正天皇)は明治大帝の存在に隠れて、国民から忘れられてしまうだろう、もう忘れられつつある、との台詞に続いて「でもこの私の胸のなかに間違いなく存在しているのです」と語ったとき、不覚にもその深切に感動したのであった。
 しかしこの重いテーマを扱った舞台公演の劇団が、(名称が)劇団チョコレートケーキというところに、演劇の現代性があるのかもしれない。



 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20160306/1457254335(「座・高円寺で『葉子』観劇:2016年3/6 」)