伊藤隆『大政翼賛会への道』(講談社学術文庫)を読む

 伊藤隆氏の『大政翼賛会への道:近衛新体制』(講談社学術文庫)読了。大正中期から昭和初期を経て、昭和15(1940)年を中心に展開された近衛新体制運動に至る近代日本政治史についての実証的考察である。昭和15年10月12日、大政翼賛会の発会式が首相官邸大ホールで催され、新体制運動はいちおうの結実をみるが、内部的にも思想的統一が保たれていたわけでもなく、人事構成についても軋轢少なからず、予算的支えも脆弱で、大日本帝国憲法の規定との整合性に関しても疑義が消えていないままの船出であったようである。その組織=運動としての曖昧さは、最高指導者として担がれた近衛文麿公爵の優柔不断の性格と合致していたのであった。「一国一党」を狙った組織であったのか、あくまでも運動であったのか、発会式での近衛総裁の挨拶では、「大政翼賛の臣道実践」ということであり、「上御一人に対し奉り、日夜それぞれの立場において奉公の誠をいたす」ということに尽きるのであるということで、綱領・宣言を発表しなかった。準備段階では、綱領草案が相当具体的な内容まで練られていたのである。
 新体制運動を推進した政治主体は、大正中期以降台頭してきた「革新派」である。それまでの「進歩」と「復古」の対立図式(横軸)に加えて、「革新」と「漸進(現状維持)」の対立図式(縦軸)で分析することが必要である。
……この二つの座標軸によって諸政治集団の相互関係を整理し、時代的変化をよりわかりやすくしようというわけである。その時代的変化について大ざっぱにのべると、大正中期にめばえた「復古ー革新」派は昭和五年のロンドン海軍軍縮問題をめぐる政治抗争の中で確立し、満州事変以後この「復古ー革新」派は急速に膨張していった。他方それ以外の部分は次第に収縮していって、全体として「現状維持」派と目されるようになっていく。「復古ー革新」派が膨張したのは、多くは、他の部分からの流入によるもので、これが「転向」といわれる現象である。力を増大した「復古ー革新」派は、おおむね二・二六事件日中戦争の開始前後から、より「復古」色のつよい「復古」派と、より「革新」色の強い「革新」派とに対立しはじめ、この両者の対抗関係が、「復古ー革新」派対「現状維持」派の対立とともに、昭和一〇年代政治史の重要な基調をなすのである。
 むろん、それぞれ「派」といったが、それは一体となったものではなく、内部の軋轢抗争が極めてはげしかった。ただここで主題とする新体制については、明らかにその推進力は「革新」派であったことを指摘しておこう。……(pp.23~24)
 ここに誕生した「革新」派とは、「資本主義体制、財閥と結びついた政党・官僚を含む旧支配層の支配と、それを支えている腐敗・腐朽したもろもろの旧制度の破壊を主張し、そして個人主義自由主義、議会主義を超えた革新、維新、革命日本の建設をめざす思想と集団のことである。社会主義共産主義からの転向者を含むこの「革新」派と、戦後の「革新」派とにある「かなりつよい関連性」が無視できないと、伊藤氏は終章で述べている。
 軍部における「復古ー革新」派の提言も興味を惹く。昭和9(1934)年10月陸軍省新聞班がまとめたパンフレット『国防の本質と其強化の提唱』では、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延(ひい)ては階級的対立を生ずる如き事実」を国防上の見地からも許しがたいものとし、「国民生活の安定のため何よりも農山漁村の更生を強調」し、「さらに思想戦の強化、航空兵力の拡充などを主張」し、最後に、現経済機構の改善整備つまり「戦時経済に向って統制経済政策をとるべきことを強調」している。中野正剛赤松克麿ら「革新」派は、このパンフレットに熱烈な賛意を表明しているが、社会大衆党の書記長麻生久も「つよい支持の態度」を表明している。さらに昭和13(1938)年3月近衛内閣が提出した国家総動員法案に対しても、「社会主義の模型」として捉え、積極的に法案に賛成しているのである。
「革新」派が結集して、近衛をリーダーとし、資本主義体制の支柱としての既成政党や旧勢力を権力から排除し、既成政党を解党させ、その中の「革新」的部分は吸収した上で、東亜協同体建設をめざした一国一党体制に基づく党の幕僚部をかためて主導権を握ろうという、クーデター的プランも昭和13年にはあったが、これは流れてしまった。
 昭和14(1939)年6月、近衛は枢密院議長を辞任している。この時の決意文に、再び盛り上がった新体制運動への近衛のゴーサインが示されたのだ。
……「……国家の飛躍的発展の使命を認識し、之が達成を庶幾(しょき)する国民の一人として、其基礎となるべき新体制確立の壮挙には欣然参加せざるを得ずとなすものなり。然れども枢密院議長の地位と政治的運動に参加することとは大義名分の上に於いて考慮せざるべからざるものあり。即ち枢密院議長を拝辞せざるべからずと做(な)す所以なり」と書いている。この辞意が認められた二三日の翌二四日、ほぼこれと同文のものが発表された。そしてこの近衛の行動が運動のゴーサインとなった。……(pp135~136)
 有馬頼寧座長の新体制準備会第5回(9月13日)で決定された「綱領草案」は次の通り。
1:肇国(ちょうこく)ノ精神ニ基キ大東亜ノ新秩序ヲ建設シ進ンデ世界の新秩序ヲ確立センコトヲ期ス
1:国体ノ本義ヲ顕揚シ庶政ヲ一新シ国家ノ総力ヲ発揮シ以テ国防国家体制ノ完成ヲ期ス
1:万民各々其ノ職分ニ奉公シ協力戮力(りくりょく※力を合わせること)以テ大政翼賛ノ臣道ヲ全ウセンコトヲ期ス(p.170)
 昭和15(1940)年7月、第2次近衛内閣成立とともに企画院は経済新体制に関する要綱草案の作成をはじめ、9月には内容が確定し、少しずつ民間に伝えられたが、財界からはつよい反撥が出たのであった。高度国防国家建設のため公共的経済原理を基調とする生産拡充を第一義としなければならないとし、経営者を利潤追求を根本目標とする考え方や資本家からの掣肘から脱却させ、国家奉仕の手腕を発揮しうるようにすることが必要であり、そのためには重要企業の経営者、さらには経済統制機関の指導者である民間人に公的資格を与えることが必要である。さらに政府と密接な連絡をもつ公法人である、国民経済組織=国民生産協同体の確立が必要であるなどと、提唱していたため、役人の中に「赤」がいるとさえ批判されたのであった。
 また大政翼賛会の予算をめぐる難航の問題もあった。背後には、「復古」派=日本主義派からの違憲論を基にしたはげしい批判が存在したのである。かくして大政翼賛会は無力化していくのであった。大政翼賛会について、日本ファシズムの成立などというステレオタイプ化した歴史概念では捉えきれない複雑さがあったことを知ることができた。
……翼賛会の無力化と代って力をとりもどした議会では一六年九月の第三次近衛内閣の下で、三二九名の議員によって結成された翼賛議員同盟が政府与党となった。これは旧既成政党の集団であった。翼賛会の推進派だったものはむしろ小会派に追い込まれていた。こうした体制の中でこの年「大東亜戦争」を迎えたのである。この段階で軍はむしろ翼同を動かし官僚機構を動かしていくことに重点をうつし、指導的政治組織を作るという情熱をもはや失ってしまっていたのである。以後、戦局が悪化し、二〇年六月国民義勇隊に改組されるまで翼賛会は存続し、戦時下で戦争体制を支える重要な役割を果したが、指導的政治組織化を試みることはなかった。……(pp.221~222)