「ひねくれ古典『列子』を読む」は面白い


 炬燵で円満字二郎氏の「ひねくれ古典『列子』を読む」を読んだ。著者は、中国思想・文学の専門の学者・研究者ではないらしいが、漢字文化の世界で研鑽を積んできた跡が窺われ、「つまり『列子』はいわゆる〈名著〉ではないけれど、独特の魅力をもつ書物なのです」とこの書に惚れ込んでいるところが評価できるし、「キャラが立っている」などの現代日本語の表現も駆使して読んで面白い。
 著者の記述によれば、列子その人は本名列禦冦(れつぎょこう)といい、老荘思想の系譜に位置づけられる思想家であり、その歴史的実在性はたしかであっても、その詳細についてはわからず伝説的な存在である。書物の『列子』は、「列子にまつわるエピソードを出発点としながら、列子とは無関係なお話まで集めてできあがった」のである。列子は紀元前375年以前に生きたが、書籍の整理記録によれば『列子』は紀元前1世紀の終わり頃までには成立していた。劉向(りゅうきょう)によって整理され定本化されたこの書物はその後散佚(さんいつ)する。現在目にするのは、紀元4世紀前半、張湛(ちょうたん)が、集め直して再編集したものである。
……物語をおもしろく語りたい。
 そういう意識を持った人びとが、何百年かにわたってすこしづつ成長させてきた書物。それが、私たちが読むことができる『列子』なのです。……(p.149)
◯第7話「お出かけ好きの列禦冦さん」:列禦冦さんが、壷丘子という師匠に弟子入りしてまもないころのことです。→初め、子列子、游を好む。(「游」はお出かけくらいの小規模な移動か。)→人の游するや、其の見る所を観る。我の游するや、其の変ずる所を観る。(ふつうの人が出かけるときは、目に映るものを見ているだけです。私が出かけるときには、ものごとが変化していくのを観察しているんです。)游や、游や。未だ能(よ)く其の游を弁ずる者あらず。(出かけるってのは、最高ですよ! 出かけることの奥義をきちんと理解している人は、まだいないですよ!)→禦冦の游、固より人と同じきかな。而(しか)るに固より人と異なると曰うかな。(師匠のことば=禦冦君の出歩きは、ふつうの人とまったく同じだねえ。それなのに、全然違っていると言っているんだよねえ。)→外に游を務め、内に観るを務むるを知らず。(師匠のことば=外に出かけてばかりで、自分の内面を見つめることを知らないのだ。)→足るを身に取るは、游の至りなり。備わるを物に求むるは、游の至らざるなり。(師匠のことば=自分自身の中に満足を見出すことこそが、究極の〈游〉なのだ。外のものごとで自分を充たそうとしても、究極の〈游〉には及ばないぞ。)→是(ここ)に於いて、列子終身出でず、自ら以て游を知らずと為す。(「終身出でず」というのはまた極端な行動ですが、列禦冦さんが一生懸命なのは、よく伝わってきますよね。=著者)→游其れ至れるかな。(師匠のことば=これぞ究極の〈游〉だな。)→さらに師匠のことばが続くが、「あるものを見ようと意識すると、それ以外のものは見えなくなります。あるところへ意識して出かけるということは、それ以外のところに出かける可能性の芽を摘むこと」になり、「老荘思想では、そういう〈意識して何かをすること〉をとても嫌がります。意識しないで自然のままでいてこそ、ほんとうの〈自由〉が得られるのだ、と考えるのです」。 
◯第14話「多岐亡羊」:楊朱の高弟心都子(しんとし)が、岐路多く逃げた羊がついに見つからなかった出来事を聞いて、「何時間も口をきかず、何日も笑顔を見せない」師匠楊朱の心境の真実をとまどう弟子に説明する。→大道は多岐を以て羊を亡(うしな)い、学者は多方を以て生を喪う。(大きな道は枝分かれが多いので、羊が行方不明になってしまうんですよ。学問にはいろいろな方法があるから、勉強する者は生き方を見失ってしまうのです。)→子は先生の門に長じ、先生の道を習う。而(しか)るに先生の況(たと)えに達せざるや、哀しきかな。(あなたは、長年楊朱先生に就いて、先生の学問を習っています。それなのに、先生のたとえ話がピンと来ないのは、残念なことですね。)
……内容的には、三人兄弟の話で〈仁義〉を取り上げているところから、この章の学問への批判は、直接的には儒教批判であることがわかります。儒教が〈仁義〉を口うるさく言うから、かえって学問の根本が見失われてしまったのだ、と。 
 その〈根本〉とは、楊朱の思想からすれば、運命に身を任せてそのときの自分がやりたいことを追求すること、ということになるのでしょう。ただ、この章を見る限りでは、そこまでは伝わってきません。
 つまりここでも、〈おもしろく語る〉ということが優先されていて、思想的な内容への気配りはお留守にされているわけです。……(pp.166〜167)
 
 この本で紹介されている全20話のエピソードのどれも、「不思議な味わいのお話」で愉しい。「思想書としての〈主張したいこと〉へのこだわりが薄いからこそ、いろいろな解釈をする余地を、私たちに残してくれているのでしょう」との著者の感想には納得できるのである。
 むろん学問研究の正統とは、決して面白いばかりではないことは知らなければならない。つい最近も中国古典についての地道な研究の一端を垣間見たばかりである。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140421/1398048868(「学問と情熱:2014年4/21」)