「性善説と性悪説」


 まるでNHK大河『平清盛』(『風林火山』以来の出来といえる)で、摂関家藤原頼長山本耕史)の悪意に気づかず操られてしまう次男平家盛大東駿介)のように、イランの思惑に乗せられてしまったらしい鳩山由紀夫元首相の〈私的〉外交には、呆れてしまう。また、「脱原発」を決定しメディアで称賛されるメルケル=ドイツが、いっぽうでイスラエルに中距離核弾頭装填可能な原子力潜水艦をすでに5隻も供与し、さらに1隻供与するという事実は、『ブリキの太鼓』の作家ギュンター・グラスの詩の翻訳を契機としてはじめて知らされるのである。ドイツ憧憬の「東京(反原発)新聞」などではわからない。
  http://tkajimura.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html(「明日うらしま」)
 いまさらながら、中国古典思想における「性善説性悪説」の議論を思い起こすのである。この議論をめぐる思想史的な事実はともかく、外交においては性悪説的な認識を前提に対処してほしいと素人ながら願う。
 かつてこのブログで「天人の分」の思想に関して紹介した浅野裕一・湯浅邦弘編『諸子百家〈再発見〉ー掘り起こされる古代中国思想』(岩波書店)が、「性善説性悪説」について学問的に解き明かしている。
 動物が生きるためにとる形態や手段をその動物の本性と定義すると、教科書的には、孟子性善説荀子性悪説との対立が知られている。孟子荀子も本性を人間に限定して論じているところが共通している。孔子には「性相い近し。習い相い遠し」の言葉があり、「これに基づくならば、孔子は善なる行為を行う能力がすべての人間に同じように存在するとは考えていなかったのであり、人間の本性にかなり差があることを認めていたようである」。
 性善説孟子といえどもいわゆる四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非の心)を「拡(かく)して之を充(おお)いにする」という後天的努力を求めていたのであるし、荀子は、「師法の化、礼儀の道」による人間の教化を強調しているが、性そのものを絶対的に悪とすれば、「人間自身は後天的な作為をなし得る根拠すらもっていないということになるはず」で、性を完全に悪であるとはしていなかったのである。郭店楚簡『性自命出』および上博楚簡には、「性は命より生じ、命は天より降る」とあり、人間の道徳的行為の根拠は、天によって保証されているということになる。同時に、人間が善に赴くためには、人間に対する後天的な働きかけが必要であることを主張している。つまり孟子の説とも荀子の説とも大いに共通性のある考え方の基本的な発想が、戦国前期以前に既に準備されていたことがわかるわけである。
……現代の自然科学の知識に基づくならば、それぞれの生物の種はDNAによって定まっているということになろう。したがって、ある種の生物の本性を善であるとか、悪であるとか価値を付すこと自体、まったく意味がないのは当然である。孟子性善説荀子性悪説は今なお高等学校の教材にもなっており、非常に有名であるが、環境問題などが重要になった現代においては、生物一般を視野に入れつつ人間を相対化した、道家の性説の方がむしろ説得力を持ち、適合しているといえよう。……

諸子百家「再発見」―掘り起こされる古代中国思想

諸子百家「再発見」―掘り起こされる古代中国思想

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の、上碧空と桜、下椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆