明治の柩




 本日9/4は、足尾鉱毒事件の解決に奔走した明治の政治家田中正造が亡くなって(1913年9/4)、百年目にあたるそうである。こちらが少年のとき没後50年(1963年)の夏の日に観劇した、田中正造の半生を描いた(劇中名は旗中正造)、宮本研作『明治の柩』(ぶどうの会第19回公演・会場東京砂防ホール)の舞台を思い出す。奇しくも旗中正造を演じた俳優の桑山正一も、今日が祥月命日(1983年9/4没)である。
 公演パンフレットの「したがってこの事件は、近代日本の出発点におこった歴史の大きなきしみであったと同時に、今日の日本がもっているすべての問題を、そのなかにはらんでいた」(故塩田庄兵衛氏)との批評は、いまの反原発派の反資本主義論・反文明論と重なるだろう。資本主義が暴力的である本質はたしかに変わってはいない。いっぽうで貧困がもたらす残酷さを解消してきた歴史も認めねばなるまい。
 成田飛行場建設で尽力した故隅谷三喜男氏は、鉱毒事件解決に少なからぬ(当時はキリスト教徒じたい多くなかった)キリスト教徒が関わっていたことについて述べ、
……だが、その点でもっとも興味をひくのは、田中正造その人である。かれも三五年六月、有名な「アクビ事件※」で入獄したとき、求めて聖書を読んだのである。東洋的教養のなかで育ったこの義人は、木下や島田や、その他多くの自分たちを助けてくれるキリスト教徒を見て、キリスト教に関心を寄せるに至ったのであろう。その後のかれの日記には、聖書の影響がかなり顕著にあらわれている。最後の日記には「悪魔を退くる力なきは、その身も悪魔なればなり。己にすでにその身悪魔にして、悪魔を退けんは難し、ここにおいて懺悔洗礼を要す」と記されている。かれの唯一の遺品であった頭陀袋から出てきたものは、日記三冊、鼻紙少々と新約聖書一冊であった。……(公演パンフレットp.23)
 ※1900(明治33)年川俣事件公判の傍聴中田中正造があくびをして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた事件。 

 昔故隅谷三喜男氏が夏に妙高高原の別荘に滞在していたとき、その近くのペンションに2、3日泊まったことがあった。成田基地阻止闘争の過激派による襲撃に備えてだろう、そのペンションが何人かの警護の人たちの連絡所となっていて、その男たちが慌ただしく動いていたことを思い起こす。別荘の庭では、麦わら帽を被ったとても可愛らしいお孫さんの少女が蝶を追いかけていた。いまどうしているだろうか。成田から世界に羽ばたいていることだろう。