生田耕作没後20年

 わが所蔵のバイロス、ロップス、アラステアなど異端的な画家の画集の編集で、個人的には馴染みのある仏文学者生田耕作が亡くなって20年になる(1994年10/21没)。本日が祥月命日にあたる。「生田耕作先生を偲ぶ夕べ」のイベントも企画されているようである。
 http://3gatsu.seesaa.net/article/407125503.html(「生田耕作先生を偲ぶ夕べ」) 


 ルイス・ブニュエル監督『欲望のあいまいな対象(Cet Obscur Objet Du Désir)』の原作『女と人形』(白水社)は、生田耕作訳(訳者直筆書名入り本)で読んでいる。
 
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 昔東京町田市にある町田市立国際版画美術館で「ロップス展」を鑑賞したときのHP記事を再録して、この孤高の仏文学者を偲びたい。


(順に、作品1、作品2、作品3)
◆昨日、朝早起きして町田市立国際版画美術館へ「フェリシアン・ロップス展」を観に行ってきた。町田市は、109もオープンして、さながらミニ渋谷といった趣の街である。東急ハンズドン・キホーテ、丸井など、若者ご用達の店が揃っている。ただ渋谷では観られる例えばゴダールの映画は、ここでは無理であるという違いは決定的であろう。小田急町田駅から歩いて15分ほどの芹が谷公園の中に、美術館がある。ミンミンゼミとツクツクボウシが鳴く鬱蒼とした樹々に囲まれていて、瀟洒でとても素敵な美術館だ。ベルギーのナミュールフェリシアン・ロップス美術館がある。もともと妻の実家だったトゼの城で、シャルル・ボードレールも、ロップスに会いに何度かここを訪れているそうだ。
 何点かの風景画も展示されていて、画家ロップスの意外な面も知ったが、本領は想像力のなかで鍛えられたエロスの世界である。カトリックの文化を前提にした、妄想のなかでの悪魔主義とエロティシズムがこれでもかとばかりに香りを放っている。サバト館(漢字がないのでやむを得ずカタカナで)の生田耕作編集の画集で観たことはあったが、まとめて作品を観るのは今回が初めてだ。自治体の運営する美術館でロップスの作品が展示されるとは一昔前では考えられないことである。驚きだ。
 作品が小さいので、どちらの(わが)メガネもぴったりせず、題名や細部を味わうのに難儀した。帰宅して図録で確かめられたことも多かった。その点残念であったが、十分満足して館を出た。
「地獄のエロティシズム」と題されたJ.K.ユイスマンスの文章(生田耕作翻訳)は、ロップス作品鑑賞のすぐれた手引きで、画集から図録に転載されている。「魂の奥底に通ずる暗い坂道へ引きずりこまれるような思い」を与える「真の才能を有する芸術家の手に成ったエロティックな作品」とは、「〈淫蕩の精神〉、具体的対応物のない、それを鎮める動物的結末を必要としない、切り離されたエロティックな想像」の産物以外のものではないと、ユイスマンスは述べている。「人間は〈善〉と〈悪〉の間を漂い、〈神〉と〈悪魔〉の間、神の精髄に属する〈純潔〉と、〈悪鬼〉そのものである淫欲との間でもがくという、〈中世〉の古い思想を採用して」ロップスの作品が成立している。実物の娘を描いた場合は、「あの素晴らしいドガの辛辣な叫びへ到達していない」が、「女を比喩的に綜合的に表現するとなれば」、ロップスは「真似手のないものになる」。
 作品1は、『悪魔的なるもの』と題された版画連作中の「略奪」。サバト(魔宴)のざわめきが聞こえる荒野まで、魔王によって全裸の魔女が大空を運ばれるところが描かれている。生の中の死、恍惚と苦痛が絵に暗示されている。作品2は、連作中の「生贄」。「悪魔は、荒々しく吠え猛りながら祭壇上の生贄を陵辱する邪悪そのものの存在である。あらゆる暴力と性的倒錯とに突き動かされたその怪物じみた力は、生け贄を引き裂き、その身体からほとばしって祭壇の段にしたたる血を飲み込んでいるようだ」とあるのは、ロップス自身のテキスト。ユイスマンスは、「鳥肌立つ恐怖の域に達している」作品と評価している。同時代の現実の女を描いた作品でも、豊かに盛り上がった尻を描いたものが多いのは、中世のサバトでは、女の裸の尻の上で黒ミサが執り行われたからとの悪魔学的理解もできるし、また今風にただたんに、画家の〈尻フェチ〉を思うこともできるだろう。
 ユイスマンスの次の結論がおそらく的を正しく射ているのであろう。
……物質主義的芸術が、子宮に食われたヒステリー女か、頭脳が下腹部で脈打つ色情狂の女しかもはや認めなくなった時代に、世紀から遠く離れて、そのわざとらしい愛嬌やいかがわしい装いが彼の作風にそぐわない現代女ではなく、パリ女ではなく、時代を超越した本質的な女性、毒を含んだ裸の獣、〈闇〉の雇われ人、〈悪魔〉の終身奴隷を描いたのである。
 一言でいえば、〈悪魔主義〉という〈淫蕩〉の精神主義をたたえ、これ以上完璧にできないかたちで、退廃の超自然性を、〈悪〉の彼岸を描いたのである。……
 個人的にはさらに、有名な「娼婦政治家」のほかに、「近代的な仮面」「平行に」「断末魔の苦悶」(作品3)「新しいローマ教皇」「年ごろ」「狂気」などに惹かれたが、「稽古」という、ストッキングだけの裸の女性がピアノを弾いていて、そこにメイドらしき女が飲み物をもってくるところを描いた作品に、なぜか興味をもった。(なお作品は、同展図録から)……(2002年8/23記)