ルイス・ブニュエルの『女と人形』


(著者署名入)

 ルイス・ブニュエル監督『欲望のあいまいな対象(Cet Obscur Objet Du Désir)』(1977年作品)の新DVD(ジェネオン・ユニバーサル・エンターティメント発売)を鑑賞。周知のように、ピエール・ルイスの小説『女と人形』を映画化した作品である。この小説の映画化としては、無声映画2作を含めて5度目だそうだが、映画通でもないので、あとの4作品は観ていない。ルイスの『女と人形』(生田耕作訳・白水社・1988年刊)も、ひさしぶりに再読した。
 ブニュエルの映画の舞台は、時代はテロ頻出の20世紀、パリとセビリア(セヴィリア)になっている。原作のは、19世紀末のセビリアが主たる舞台である。主人公のマチュー(マテオ・ディアス)は四十年輩のスペイン人であるが、映画では、フランス人の老紳士。原作では、コンチータに恋い焦がれそうなアンドレに対して、マチュー(マテオ)が警告を兼ねて、彼女との恋の顛末を語る形式で展開する。映画のほうは、老紳士マチューが、セビリア駅からパリに向かう列車のコンパートメントの乗客に語るという展開となっている。乗客の一人が、小人の心理学者で、時おりわかったような分析を試みるところが、ブニュエル監督らしく愉快である。どちらも振り回されたあげく、けっきょくはマチュー(マテオ)は、コンチータの許に戻るか、戻ろうとするのは、呆れるほど面白いのだ。

 映画のユニークなところは、コンチータ役を、知性的なフランス人女優キャロル・ブーケ(Carole Bouquet)と、情熱的なスペイン女優アンヘラ・モリーナ(Angela Molina)の二人が演じていること。しかし声は別の女性の同一の声で進行しているので、少なからぬ観客は気づかず違和感はなかったらしい。清楚でモシータ(処女)的な部分をキャロル・ブーケが、妖艶で悪女の部分をアンヘラ・モリーナが演じたのである。
 小説と映画のそれぞれの作品評は、それにふさわしい人物に任せることにして、個人的に大いに興味がもてた場面を採り上げておこう。(小説は、生田耕作訳。)マチューが思いを遂げようとベットに横たわるコンチータに手を回すと、なんとコンチータ貞操帯のような下着を穿いていた場面。「二人してむすびし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ」(『伊勢物語』三十七)とは、ある意味対極の関係だろうか。もう一つは、セビリアで踊っていたコンチータに私邸を購入してやり、約束の夜マチューが会いに出向くと、門扉は開けられず、コンチータはギター弾きの青年と、眼前で房事を演じる場面。映画でこそ、いっそう男の哀しさと可笑しさが感じられた。


……さて、普段家にいるときも、この情知らずの女は粗い布を裁ってこしらえた下穿きをはいておりました。牛の角をもってしても引き裂けないような固い頑丈な質のもので、とても手に負えない込み入った頑丈な紐で帯(バンド)と太腿に結びつけられています。気も狂わんばかりの情熱の真只中に私が見出したものは、なんとこれでした。いっぽう悪党女はいけしゃしゃあとこう言いわけするのです。
「神様がお許しになるところまでは乱れてもかまわないけど、男の人がお望みのところまでは駄目よ!」……

……舞台の真ん中では、素っ裸のコンチータが、他にも三人やはり裸の女たちと一緒に、奥の方に腰かけた二人の英国人を前に狂おしいホオタを踊っているところでした。裸と言いましたが、彼女は裸以上でした。タイツの脚のように長い黒靴下が腿のつけ根まで達しており、足には嵌め木の床に高い音を響かせる小さな靴をはき。私は割って入る勇気がなかった。彼女を殺めてしまいそうで恐ろしく。……

……甘い囁きはまだまだ続くのでした……。
 最後に……これでもまだ私を苦しめ足りないと思ったのだろうか……彼女は……口にするのも憚られますが……彼女は彼と肉体で結びついたのです……その場で……私の眼の前で……私の足もとで……。……

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、上ゼニアオイ、下白椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆