アンドレイ・タルコフスキー監督とホフマン

f:id:simmel20:20201229211544j:plainf:id:simmel20:20201229211558j:plain

 逢坂剛の長編小説『鏡影劇場』(新潮社)は、E.T.A.ホフマンについての妻ミーシャに宛てた、友人ヨハネス(じつはホフマンのドッペルトゲンガー=分身?)の報告書をその裏書の、スペインのギタリスト、フェルナンド・ソルの作曲した楽譜の写しに興味を抱いて、マドリード古書店で倉石学という日本人ギタリストが買い求めるところから物語が始まり、倉石夫人と同じ大学で独文学を学んだ古閑(こが)沙帆が頼まれて、かつての恩師で博覧強記のホフマン研究家の本間鋭太にその翻訳・解読を任せる、という展開で、次第にホフマンの人生と藝術の全体像がわかりかける過程で、登場人物たちのあっと驚く血縁関係も明かされてくるという仕掛け。本間が経験したこの出来事を物語として世に知らしめてほしいと、その出版を作家逢坂剛氏に委託した、というややこしい設定になっている。最終報告書の解読は、袋とじとなっていて、本間の裏にさらに原作者が隠れていて、その人が逢坂剛氏に原稿を委託したのではあるまいか、などとホフマン風の怪奇幻想の遊びを作者は楽しんでいる。イスパノフィロ(スペイン好き)でギタリストで、直木賞作家の逢坂剛の面目躍如の作品と言えるだろう。
 上下2段650頁エピローグ35頁のこの大作を読破するのにさすがに何日も要したが、ここでは569頁に触れられている、ロシア(旧ソビエト)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーについて。本間鋭太は、映画のための構成メモのようなタルコフスキーの『ホフマニアーナ』という本を、古閑沙帆に貸し、後日その感想を訊いている。


「どうだ。すぐに読めたじゃろうが」
「はい。確かに2時間ほどで、読み終わりました。。でも、そのわりに読みでのある、密度の濃い作品でした。映画にならなかったのが、惜しまれますね」
 アンドレイ・タルコフスキーはロシアの映像作家で、亡命後1986年にパリで亡くなった、という。まだ五十代だったそうだ。
 本間が言う。
「おそらくタルコフスキーは、ドストエフスキーゴーゴリを読んで、ホフマンを知ったんじゃろうな」
 この日はのっけから、〈じゃ〉の連発だ。くつろいだ気分とみえる。
タルコフスキーが、ホフマンのどこに引かれたのか知りませんが、この本を読むかぎりでは、かなり心酔していたようですね」
 沙帆が応じると、本間は満足そうにうなずいた。……(p.569)

 沙帆は初め、本間からタルコフスキーの名を聞いたとき、「子供のころ、テレビで『僕の村は戦場だった』という映画を、見た覚えがあります。あれって、タルコフスキーですよね」と返していた。タルコフスキー監督の『僕の村は戦場だった』は、昔銀座のアートシアターで初上映された映画である。懐かしく思い出したことである。
 なおアンドレイ・タルコフスキー監督は1986年12/29に亡くなっており、つまり奇しくも本日が祥月命日にあたるのである。

f:id:simmel20:20201229221352j:plain

f:id:simmel20:20201229221404j:plain